第三十四章 巡る思惑

 
 次の日の昼。
 オトンヌ宮では王室の面々を集めた食事会が開かれていた。
 ミュゲは平静を装いつつカトラリーを動かし、きじのローストを口に運ぶ。
 広いテーブルにはオルタンシアの姿だけがなく、いつまで経っても彼女が≪享楽の間≫に姿を見せる気配はない。
 そこでリシャールが不審そうに言った。
「オルタンシアはどうしたのだ。もう食事会は始まっておるというのに、言伝の一つもないとは」
「今朝はまだ顔を見ておりません」
 シュザンヌはそっけなく言い、傍らのグラスを引き寄せて口をつけた。
 中身はリキュールのソーダ割りで、水中には茉莉花が沈み込んでいる。そのかぐわしい芳香を堪能しながら、彼女は気ままに食事を続けた。
 リシャールは重いため息をつく。恐らくこの王妃の自由気ままな態度にがっかりしているのだろうと思われた。
 
 ミュゲはそっと毒づく。
(……お母様は相変わらずね。正妃なんて呼ぶのもおこがましいくらい自分勝手で。自分の娘があんなことになっているのにも気づかずに)
 
 王太后ヴィルヘルミーネがゆったりと首を傾げる。
「具合でも悪いのかしらねえ。単なる定例の食事会とはいえ、一言連絡を寄越してくれてもよさそうなものだけれど」
 
 ……その時、慌ただしく室内に駆け込んできた侍従に、王室の人間たちはみな一斉に食事の手を止めた。
「も、申し上げます、国王陛下。第一王女のオルタンシア様が……!!」
「何事だ!! はっきり申さぬか!!」
 リシャールが一喝する。
 侍従はたっぷり数秒はためらっていたが、やがて意を決したように告げる。
「は……、それが、第一王女オルタンシア様が謎の昏睡状態に陥られました!」
「何……!?」
 思いもよらない発言にリシャールは立ち上がり、目つきだけで言葉の続きを促す。
 侍従は萎縮しつつも唇を開いた。
「筆頭侍女が起床のお時間を知らせに行ったところ、姫様が硬直して動かなくなっていらっしゃるのを発見したそうで……。宮廷医に診せましたが、目立った傷や狼藉の痕はなく、ただ静かにお眠りになっているとしか言えないと……」
「……な……!」
 リシャールは瞠目し、それきり言葉を失った。
「どういうことなの!? わたくしのオルタンシアが……昏睡ですって!?」
 シュザンヌが青ざめてカトラリーを取り落とす。先ほどとは打って変わったうろたえように、ミュゲはおかしくなる。
 そこで王太后ヴィルヘルミーネが、冷静沈着な態度を崩さぬままつぶやくように言った。
「おやおや。随分と面白い病があったものだわ……、毒にしては変わっている。眠っているだけだなんて、まるで童話ね」
「お、伯母様……!! わたくしは一体どうしたら……!!」
「落ち着きなさい、シュザンヌ。王宮ではもう伯母と呼んではならないわ。そう言ったはずよ」
「ですが!!」
「……さあてねえ……、城の中に異端分子が潜んでいるということかしら。それとも、やむにやまれぬ事情があってオルタンシアを害したのか……」
 やけに落ち着き払った様子で、ヴィルヘルミーネは言った。
 ミュゲはその言葉を聞きながら、心の中で吐き捨てる。
 
(毒の生成に長けていたアウグスタス家の女なら、くだらない怨恨から毒薬を使ったことくらいあるでしょうに)
 
 父王リシャールの即位については謎が多く、彼の兄弟たちの死因をもみ消した形跡が見られることから、ミュゲはこの祖母を疑っている。同時に、こんな女の血を引いているのかと思うと己の生まれを呪いたくなるのだった。
 
 死と姦淫に彩られた、アウグスタス家の女たち。その呪縛はミュゲを捕らえて離さない。そしてシュザンヌの血を引く王子王女の中でも、恐らく自分が最もその傾向が強いだろうということを、ミュゲはこれまでの生から察していた。
 脆弱であるがゆえに他者の苦しみと己の悦楽を追い求める。母や祖母が繰り返してきたのと全く同じ道を、今まさにミュゲは辿ろうとしていた。
 
 リシャールは苦悩し、形のよい爪をきりきりと噛みしめる。
「くっ……。まさか、試験の最中にこのような事態に陥ろうとは!」
「……では陛下、ここはオルタンシア姫を除外して試験を進められてはいかがでしょうか」
「何!?」
 クロードの提案に、リシャールはキッと彼を睨み付ける。
 だが、クロードは淡々と続けた。
「例の予言に従うのが陛下の望むところかと存じます。ならば、一人欠けたとしても試験を続行するしかございません。王家の血を引く王女を女王として擁立すること。それが予言の主旨なのですから」
「だが、オルタンシアは最も素質の優れた王女で、すでに票数も他の三人とは比べ物にならぬほど多く入っていたのだぞ。実際、僕はあやつに大いに期待しておった。だのに、一人だけ除外するなど……!」
「何ら問題ございません。このまま三名の王女で女王選抜試験を続けましょう。オルタンシア様の治療はその間に行えばよろしいかと」
 クロードはいささかも取り乱さずにそう言い切った。
 リシャールはうなだれ、重苦しいため息を吐く。
「……お前がそう言うならそうなのだろうな。確かに、今更試験を中断させるわけにはいかぬ。ここはお前の言うとおりにするほかなかろう。……元老院の重鎮たちにもそのように伝えておけ」
 その力ない一言を合図に、食事会は一旦切り上げられることとなった。
 
 
***
 
 オトンヌ宮から戻ってきたミュゲは、西棟の隅で歩みを止めた。
「恐ろしいことが起こったものだわ。まさか昏睡だなんてね」
「……一体どうしてしまわれたの、オルタンシア様……」
 ひそひそと話しているのはバイオレッタとピヴォワンヌだ。
 相変わらずお人好しなバイオレッタはまだオルタンシアの心配などしている。オルタンシアの無事ばかり祈っているその姿は、ミュゲなど端から眼中にないかのようだ。
 それが無性に気に入らなくて、ミュゲは形のよい朱唇をきりりと噛みしめる。呑気な王女たちだ。
 
「まあ、敵の心配をしている余裕が貴女にあって?」
 歌うように言い、ミュゲは二人に近づいた。
「ミュゲ姫様」
 二人は身を寄せ合うようにし、こわごわミュゲを見つめ返す。
「……あら。仲がいいのね、貴女たちは」
 
 まるで互いを庇いあうかのような姉妹の姿が、ミュゲにはどうしても理解できなかった。
 自分と姉はここまで仲睦まじくはなかった。いつだって比較の対象にされてきた。
 またある時は彼女が優位に立つための道具として扱われた。こんなこともできないなんてと、オルタンシアはいつもどこか馬鹿にしたようにミュゲを見た。
 
「ミュゲ姫様。その……、お姉様のことは残念でしたわね」
 そんなことを口にするバイオレッタに、ミュゲは噴き出した。
「残念? あら貴女、本当にそんなことを考えているの?」
 バイオレッタが小さく息をのむ。
 ミュゲは続けた。
「……だって、おかしいじゃない。貴女にとってお姉様は敵でしかないのよ? それも、この試験における最大の障害だわ。あの人が女王になってしまったらどうなるか、考えたことがあって? わたくしたちは皆まとめて城を追い出されるの。政略結婚、臣籍降嫁。こんな風に呼べば印象はいいかもしれないけれど、要は厄介払いよ。好きな殿方とだって、永遠に結ばれることはない……」
 唯一生き残ったリシャールの姉妹たちだって、もうほとんどスフェーンにやってくることはない。実権を握ったヴィルヘルミーネが他国に追い出したからだ。それも、大した権限も持てないような没落貴族の妻にされた。王家の女としてこれほどの屈辱があるだろうか。
「わたくしはそんな結末は嫌なの。女として生まれてきた以上、幸せになりたいと思うのは当然のことでしょう? それを思えば、今回の事件は好都合だったわ」
「お姉様のことをそのようにおっしゃるなんて……!」
 ミュゲは眉根を寄せる。
 この姫はどこまでいってもお綺麗な受け答えしかできないようだ。それがいつも無性に癇に障る。
「相変わらず甘いのね。そんなことでこの王宮で生き残れるとお思い、バイオレッタ姫? 大臣たちの話によれば、次の審査ではわたくしと貴女の一騎打ちになるかもしれないんですってよ」
「……!」
 ミュゲはじっとりとした視線をバイオレッタに注ぐ。
「さて……どうやら直接対決になってしまったようね」
「……」
 彼女は答えない。恐れをなしたのか、ミュゲを憐れんでいるのか。どちらにせよ腹立たしい沈黙だった。
「まあいいわ。見ていなさい。貴女をすぐに打ち負かしてあげるから」
 立ちすくむバイオレッタを優雅な笑みでいなし、ミュゲは踵を返した。
 
 
***
 
 
「ミュゲ様」
 居住棟である翡翠ジェダイト棟に入ろうとしたミュゲは、自らを呼び止める青年の声に立ち止まった。
 そこには、長い白銀の髪を靡かせてアベルが立っていた。もの言いたげな顔つきで、じっとミュゲを見据えている。
 射すくめるような視線、そして妙に腹の据わった態度がなぜだか恐ろしくて、ミュゲは彼を強い視線で威嚇した。
「……何? わたくしの部屋の前にいつまでも居座るのはやめてもらえない? 迷惑よ」
 そう突っぱねるミュゲに、アベルは静かに問いかけた。
「……貴女、何をしました?」
「えっ……?」
「オルタンシア姫の昏睡について、貴女何か知ってますよね?」
 詰問され、ミュゲはかすかに視線をさまよわせた。
 
 ミュゲは昨日、姉姫オルタンシアを害した。クロードに届けてもらった銀の櫛を使って。
 それは先端の部分に闇の魔術で生成された毒を塗布したものだった。
 闇の魔術は夜闇や深淵を思わせる性質のものが多く、「眠り」や「安寧」、「沈黙」といったものを人間にもたらす。
 大陸では『高位魔術』と称されるだけあって、使いどころを誤れば人間の身体にとっては害となってしまう代物だ。クロードは普段、主君リシャールの安眠のために施すことが多い。
 ミュゲが今回オルタンシアに使ったのは、その闇の魔術で生み出された毒薬だった。
 
 それを塗布した銀製の櫛をミュゲに手渡しながら、クロードは説明した。
『こうして魔術を施した櫛ならば、まず貴女は疑われない。使った後は闇の魔術が自然に霧散して消えてしまうからです』
 彼女の容体は一見して単なる昏睡状態にしか見えなくなるのだと彼は言った。
『一度そうなってしまっては、宮廷医たちの知識はまず役に立たないでしょう。傍目には毒を使われたように見えても、肝心の毒の痕跡が全く残っていないのですから。仮に頭部に櫛を突き立てたとして、そこに残るのはかすかな傷跡だけ。誰も貴女が手を下したなどとは気づかない』
 
 件の櫛は丁重に私室の抽斗にしまいこんだ。万が一にも暴かれるようなことがあってはならない。
 歯の部分を布で丹念に拭き清めながら、ミュゲはそのずしりとした質感をあたかも自らの罪の重さのように感じていた。
 そして、この櫛こそが自分とクロードとを繋ぐ唯一の品だとも感じたのだ。
 
 ……皮肉にも、これがクロードとミュゲ、二人が犯した初めての罪となった。
 魔術で生成した毒なら、いかな宮廷医であろうとも検出は不可能だ。毒の種類を突き止めるには、魔導士たちが魔術の仕業だと気づくよりほかない。
 しかし、姉の肌にもう毒は残っていない。宮廷人たちはまず魔術だとは思わないはずだった。
 
 まさか、この男はそのからくりを見抜いたのだろうか?
 そこまで考えて、彼もまた魔導士なのだということを思い出す。
 
(なるほどね……。この男は下級魔導士ではあるけれど、クロードと同じ魔導士館に所属する術者。何かを感じ取っていたとしてもおかしくないわ)
 
 ミュゲはそこでうっすらと笑った。
「……わたくしを疑っているの? わたくしが女王候補だから?」
 胸の昂ぶりに任せて、ミュゲはわずかに口角を持ち上げる。
 アベルは相も変わらず淡々と言った。
「いいえ。たったそれだけのことで嫌疑をかけるなら、僕は他のお二人のところにもとっくに足を運んでますよ」
「じゃあ……どうして?」
 挑むようにアベルを見据える。
 彼は冷然とした態度を崩さないミュゲに、わずかばかり失望したようだった。
 重いため息をつくと、言う。
「今の貴女はあまりにも落ち着き払っている。さっき僕が声をかけた時だって、まるでこうなるのが当たり前みたいな顔してましたよね? 驚いた様子や怯えている様子なんか微塵も見せなかった」
「ええ。そうね。だって、お姉様には敵が多いのだもの。あなたは知っていて? お姉様は意外と妬みや嫉みを買いやすい方なの。お姉様が夜会で殿方に称賛されると、貴婦人たちは皆いい顔をしないのよ。だって、自分たちがかすんでしまうものね」
 レースの扇で口元を隠し、ミュゲは楚々と笑ってみせる。
「今回のこれも、大方そうした女性たちの仕業ではないかしら。可哀想なお姉様。何も悪いことなんかしていらっしゃらないのにね……」
「じゃあ、貴女は姉姫に対してそうした嫉妬の感情はかけらも持っていないということですね?」
 ミュゲはあまりの忌々しさに顔を歪めたくなったが、努めて淑やかに言い切った。
「ええ。そんな大それたことは考えていないわよ」
 
 二人は執拗に視線を交わし合った。
 色っぽいことなど何もない。ただ腹の探り合いをしているだけだ。
 だが、こうも怯まず視線を注がれると、不思議と気分が高揚してくる。彼の強い視線で、この胸の奥底まで暴いてみてほしくなる。
 アベルのまなざしはそれくらい揺るぎないものだった。
 
(そうよ。あなたが骨のある男だというなら、わたくしの奥の奥まで探り当ててみせて。何が今のわたくしを突き動かしているのか、全部解き明かしてみせて……!)
 
 それができない男など、端からお呼びではないのだから――。
 
 アベルは嘆息し、艶やかな銀髪を荒っぽくかきあげた。
「……今回のこれは、貴女が愛している男の指図なんですか?」
 ミュゲは動揺を押し殺し、努めて冷静に切り返した。
「なんの話をしているのかしら。わたくしには恋い慕う殿方なんかいないわよ。たとえそんな相手がいたとして、あなたになんの関係があるの?」
 てっきり黙り込むかと思いきや、アベルはまっすぐミュゲを見つめて言う。
「関係ありますよ。僕は貴女が好きだから」
「好きですって……? あはは……!」
 思わず高らかに笑ってしまう。
 常套句を出せば絆されると思っているのかと、ミュゲは逆に愉快になった。
 ミュゲより四つ年上の男でもこんなものなのだ。「好きだ」「愛している」などとささやけば、女が自分の思い通りになんでも告白すると思っているのだ。
 
(馬鹿みたい。人の気も知らないで、好きだなんて言えば全部解決すると思っているのね。なんて浅はかで短絡的な男なの)
 
 ミュゲの哄笑に、隠し通せない悲痛な声色が混じる。
 しばらく甲高い笑い声を上げてから、ミュゲは目尻の涙を指でぬぐった。
「ふざけるのもいい加減にして下さる? クララ姫の従者さん。敵国の男がわたくしを好きだなんて言うはずがないでしょう?」
 黙り込むアベルを鼻先で笑い、ミュゲは続けた。
「あなたの国はわたくしのお父様に滅ぼされたの。スフェーンの姫を想うことなんか、アルマンディン人のあなたにとってはなんの得にもならな――」
「ふざけてるのはそっちだろう!!」
 怒声とともに勢いよく石柱に背を押し付けられ、ミュゲはびくりとする。
「お前、何を考えてるんだ!! なんの得にもならないことをしてるのはお前の方だろ!! 血を分けた姉をあんな風にして、何が楽しい!? 他人ひとを蹴落とせば自分の輝きが曇るだけだと、どうして気づかない!!」
 いきなり態度が豹変したことに慄かされ、ろくに言葉が発せない。
 どうしてアベルが怒鳴るのだろう。彼は赤の他人も同然で、しかもミュゲとはほとんど接点もないはずなのに。
「……な、によ……、怒らなくたって」
「怒るに決まってるさ。俺がずっと惚れてた女が、こんな卑劣な性格をしていたなんてな」
「……!」
 かっとなったミュゲは声を張り上げた。
「なんとでも好きに言えばいいでしょう!? あなたが惚れているのはどうせわたくしのうわべだけよ!! 中身まで見ていないからこんなことになったんじゃない!! 勝手に期待して勝手に幻滅しないで!! そんなのはもううんざりだわ……!!」
「知ってるから言うんだ……! お願いだから、もうこんな悪事に手を染めるのはやめてくれ。姉殺しの烙印を捺されたいのか!?」
「ええ!! 試験で勝てるならどんな汚い手だって使うわよ!! わたくしの将来がかかっているんだから!! わたくしのことなんか何も知らないくせに、馬鹿みたいな説教をしないで!!」
 ミュゲの切り返しに、アベルは本気で頭に来たようだった。
 冷たく身体を放し、ミュゲに目もくれずに言う。
「……今すぐ父王に罪を告白するんだ。協力者がいるなら解毒薬をもらってこい」
「いやよ。解毒なんかしない。わたくしが女王になるんだもの……!」
 アベルは唇を震わせる。くしゃくしゃに顔を歪めたかと思うと、「そうかよ」とつぶやく。
 そして突き放すように告げた。
「……勝手にしろ。ただし、女王選抜試験の進行を妨げたのは自分だってこと、忘れるなよ」
 ……その言葉は呪詛のように心の奥底へ沈んでいった。
 
 
 

 

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