「というわけで……ここがリーベ地区よ、マッジ。観光名所を多く集めた地区として知られているわ」
ふんだんにレースを張ったエクリュの日傘の下、ベアトリクスが微笑む。
「心配だから身辺警護に当たりたい」というランドルフを振り切り、二人は「夕方までにリットン邸に戻ってくる」という条件付きで王都に繰り出した。
まだ王都のことをよく知らないのだというマーガレットに、これまた箱入り娘なベアトリクスが「ひとまずリーベ地区に行ってみよう」と提案し今に至る。
二人ともそこまでこの地区に詳しい方ではないから、異国人向けに造られたみやげもの屋や観光施設の数々にいちいち歓声を上げてしまう。
けれど、たまには当て所なく街をうろつくのも楽しいものだ。
二人はとりとめのないおしゃべりをしながら、薄ピンクのハナミズキの花が揺れる並木道をぶらついた。
「ねえねえベアトぉ。ここってピスタサイトのどのあたりなのー?」
「そうね……、セナーテ地区が北西だとすると、ここはちょうど北東ね。両隣には軍本部のあるエステル地区や王立治療院のあるカダール地区があるわ」
「ずっと疑問だったんだけど、地区ごとに何か特徴があったりするの?」
「ええ。エステル地区には軍本部、貴族会館、大聖堂といった中央区の要所が集中しているわ。カダール地区は聖職者たちの住居から最も近い地区で、ここは治療院や孤児院といった施設が多いの。五つの地区の中でもこのエリアだけは一番静かよ」
大通りに差し掛かったところでちょうど案内板を見つけ、二人で眺める。
ベアトリクスは白い指先で二重の環になったマップの上をトン、と指し示した。
「あなたが普段暮らしているのはこのセナーテ地区。私のおうちは環の外側のこの辺り。……で、今いるのはここね」
「リーベ地区ね」
「そう。エピドートを代表する五英雄にはそれぞれ象徴する事柄があって、王都の五大地区はその伝承をもとに造られているの。セナーテは繁栄、エステルは法と秩序、リーベは愛と平和、カダールは安寧と安定。そしてフレデリクは享楽を司るわ」
「ということは……それを各エリアに当てはめて考えれば、そこが大体どんな地区なのかわかるってこと?」
「正解よ」
マーガレットは「う~ん」と考え込む。
「エステルは法と秩序……、あっ、だから軍本部や貴族会館があるのね!」
「ふふ、飲み込みが早いわね。そう、その通りよ。カダールは安寧と安定を司る英雄だから、その名を冠したエリアもとても閑静というわけなの」
「セナーテは繁栄かぁ……。あ、だから百貨店や市場があって活気があるのかな?」
「それが、五英雄のお話はとっても古い言い伝えだから、必ずしも忠実というわけではないのよね。それぞれの地区を治めている『地区長』がそういう方針というだけで。もしかしたらもっと深い解釈があるのかもしれないともいわれているわ」
五英雄の逸話に地区長……どうやらこのピスタサイトという街には不思議な文化やルールがたくさんあるようだ。
マップに置いた指を南西の方角へずらしながら、ベアトリクスは続けた。
「ちなみに五地区の中で最も物騒なエリアだと言われているのがこのフレデリク地区よ。この地区は享楽がテーマなだけあって、『大人の遊び場』といった雰囲気が強いわ。酒場や娼館が多いことから“不夜城”と呼ぶ人もいるの。子供には危ないから、夜は近づかない方がいいわね」
「ふうん……」
日傘をたたみ、ベアトリクスは軽やかにワンピースの裾を翻す。
「さてと! せっかくリーベ地区にやってきたのだから、何か変わったものでも食べましょうか!」
「わあい! 賛成~!」
……と、そこまではよかったのだが。
(なんでこんなに大量に平らげてるの~っ!?)
ベアトリクスとともにリーベ地区の喫茶店に入ったマーガレットは、思いもよらない展開に目を剥いた。
ベアトリクスは皿に盛られたスコーンやケーキを、凄まじい勢いで片っ端から消費していく。
さっき一緒にリットン邸のデザートを食べたばかりだというのに、彼女はマーガレットの制止をよそに大量の菓子をオーダーし、事もなげに次々胃袋に収めていった。
「んぅ……」
ベアトリクスは鼻にかかった甘い声を漏らすと、赤い舌をちろりとのぞかせて指についたチーズクリームを舐めとる。その様子はどこか淫靡で色っぽくもあるけれど、それにしたってこれだけの量のスイーツを秒殺というのはどうもただ事ではないような気がする。大食い選手権に出したらぶっちぎりで一位を獲得しそうな健啖家ぶりだ。
それまでベアトリクスに対して抱いていた「線の細い美少女」というイメージはものの見事に崩れ去り、今ではむしろ「いっぱい食べる君が好き」な勢いだ。
もしや邸では初対面ということもあって遠慮していたのだろうか?
華奢な体つきからは想像もできないほど気持ちのいい食べっぷりに、マーガレットはびっくりしてしまった。
「ああ、おいしい……。やっぱり運動したあとは甘いものよね」
「あ、う、うん……、そうね……」
「運動というほどの運動はしていないのでは?」と突っ込みかけ、やめる。
菓子を頬張る彼女があまりに幸せそうだったからだ。
「ふふ。マッジ、この焼きプディング、カラメルにこくがあってとてもおいしいわよ。あ、こっちのチェリーパイもさくらんぼが大粒で絶品よ。あと、このトリークル・タルトとヴィクトリアンサンドウィッチ・ケーキも……」
「ちょ、ストップストップ!! あたしそんなに食べられないからっ!!」
「そうなの……? 残念だわ、どれもとっても素敵な味なのに……」
悲しそうに瞳を潤ませながら、ベアトリクスは渋々といった様子でスイーツを盛った皿を引っ込める。
(あああっ……、美少女の憂い顔、反則~……!)
「ベ、ベアト。あの……もしかしていつもこれくらいしっかり食べていたりする?」
「もちろん! おいしいものを食べると元気になれるし、何よりちゃんと食べないと力が出ないもの」
フォークを置き、ベアトリクスは困った風に眉を下げる。
「私、喘息持ちなの。兄様が心配しているのはきっとそこね。一人で外出させてもし何かあったらって考えると気が気じゃないんだと思うわ」
「そっか……、病弱なのも辛いわね……」
「あ、でも、年を取るにつれてだんだん軽快してきているのよ。今はほとんど薬も必要ないし、少しくらいなら運動だってできるようになったんだから」
彼女は白魚のような手を祈りの形に組み合わせ、うっとりした顔でつぶやく。
「今年はデビュタントのパーティにも出られるし、本当に夢みたいな気分……」
「パーティ」という言葉に、マーガレットは勇んで身を乗り出す。
「ねえ、デビュタントって真っ白なドレスを着るんでしょ? いいなあ、ベアトのドレス姿、きっと綺麗なんだろうなぁ!」
「うふふ。よかったらマッジも見に来て。デビュタントのパーティはリトゥアール城で一般公開されるから」
「そうなの? 行く行く!」
蜜がけした甘いかぼちゃのタルトをつつきながら、マーガレットは一番気になっていたことを聞いてみる。
「ねえねえ、ドレスのデザインってもう決まった?」
「ええ」
「わあっ、どんなの着るの?」
「生地はしきたり通り真っ白なシルクタフタよ。胸元には白いカメリアのコサージュ、スカートにはまるで泡のようなたくさんの真珠をちりばめてあるの。で、足元は華奢なストラップがついたアイボリーのハイヒール」
「う〜ん、想像しただけでステキぃ。スカートにたくさんの真珠かぁ。パール尽くしの衣装なのね。ベアト、お人形さんみたいに可愛いからそういうの似合いそう~!」
自分が参加するわけではないけれど、聞いているだけで無性にわくわくした。ドレスと聞いただけで胸が高鳴るのは、もはや乙女の性である。
「そういえば、今日も真珠のイヤリングしてるわよね? もしかしてベアトって真珠が好きなの?」
「えっ……」
……ベアトリクスの耳元で揺れる、白い真珠のイヤリング。
それを指し示しながらマーガレットが問いかけると、ベアトリクスは口元を手で覆い、少し恥ずかしそうに答えた。
「……あのね、これ、昔アランにもらったものなの」
ベアトリクスはわざわざイヤリングを外して見せてくれた。
真珠は美しいしずく型をしており、表面には七色の艶が浮かんでいる。形が少し不揃いなところがかえって魅力的で、マーガレットはしばし手の中のイヤリングに見入った。
「綺麗でしょう? エピドート南洋で採れるバロック真珠よ。アランのお家はこの国一番の貿易商だから、こういう珍しい品物を手に入れる機会が多いの。質のいい真珠を見つけたからって、私のためにわざわざ加工してくれたのよ」
思わず心の中で「アラン、やるじゃない!」と叫ぶ。
(ちょっと仲違いしたくらいで何よもう。この子はこんなに一途にアランのことを想ってくれてるのに!)
きっと真珠という宝石そのものがベアトリクスにとっては特別な意味を孕むものなのだろう。だからこそ彼女はデビュタントの衣装に真珠をちりばめようとしているのだ。
その乙女心を思うと、マーガレットはじれったくてたまらなくなった。
「ねえ。二人は何がきっかけで仲良くなったの?」
「もう四年も前の話になるんだけど、エドとアランと兄様の三人が寄宿学校から帰省してきた時、みんなで父様の別荘に避暑に行くことになって……。そこで一緒にゲームをしたり乗馬をしたりしているうちに自然と仲良くなったの。それから時々お手紙のやり取りをするようになって……」
「なるほどー、ひと夏の恋ってやつね! ねえねえ、キスってどんな感じ? 抱きしめられると身体が溶けそうになっちゃうってほんと?」
すると、ベアトリクスは目に見えて狼狽した。茹だったように真っ赤な顔で言う。
「わ、私とアランはまだそんなところまで進んでいないわ……! まだ手を繋いだことだってないのに……!」
「えっ……ご、ごめん!」
「いいのよ。大した進展がないのは事実だから……」
どこかしょんぼりとベアトリクスは言い、ティーカップに口をつける。
温かな紅茶で唇を湿らせると、彼女は物憂げにつぶやいた。
「アラン、私に気を遣いすぎるの。身分が違うせいだと思うけど、いつも他人行儀でよそよそしくって……。私、それがなんだか悲しいのよね……」
聞けば、アランの実家は「コールフィールド男爵家」というそうなのだが、一代貴族で、身分はあまり高くないらしい。
一代貴族というのは、国と女王に大きく貢献したことによって爵位を得た「仮の貴族」のことである。
現時点では父親の代しか男爵位を名乗ることを許されていないため、今後も貴族を名乗り続けるには息子であるアランの努力が必要不可欠なのだそうだ。
対するベアトリクスの実家は「リットン伯爵家」といい、建国以来この国を守ってきた騎士の家系なのだという。
「今でこそ軍人と名乗っているけれど、元をたどればリットン家の初代当主というのは王様にお仕えする筆頭騎士だったのよ。時代とともに名称が変わっただけで、戦場に身を置く血筋であることは変わりないわ」
「ほえ~……」
「悲しいことなんだけど、この国では身分が釣り合わない者同士の婚姻は難しいの。上流階級の婦人が働きに出るだけでとやかく言われる時代ですもの、当たり前よね。だけど私、どうしてもアランと男女のお付き合いがしたくて……。つい夢を見てしまうの」
「んー、でも、お付き合いと結婚は違うでしょ? ただ仲良くしてるだけなら問題ないんじゃないの?」
「けど、年配の人たちはよく思わないでしょうし、お互い悪い評判が立っては将来に差し支えるわ。ただでさえアランは優秀な男性なのに、私のせいでその未来が閉ざされてしまったらって考えると……」
陰鬱な面持ちで、ベアトリクスは紅茶を啜る。
そのしおらしげな風情はいかにもロマンス小説の主人公といった体で大変魅力的だ。雨に打たれて頭をうつむけている花のような可憐さがある。
が……
(……なんだろ、すごいもどかしいっていうか、しなくてもいい心配をしてるように聞こえるのはあたしだけ?)
陽気さがとりえのマーガレットにしてみれば彼女の心配事は杞憂のような気がして仕方ない。
そもそもまだ起こってもいないことを案じてどうするのだろう。ベアトリクスの場合は未知の心配事を心配しているようなものだ。
大体、そんな心配ばかりしていたらできるはずのものもできなくなってしまう。彼女の内気さにはますます磨きがかかるだろうし、本来愉しめるはずのものもろくに愉しめなくなってしまうだろう。
もしかすると兄ランドルフの過保護ぶりも原因の一つなのかもしれないが、何はともあれそんな理由でアランの好意が無碍にされるのだけは避けなくてはならない。
この二人はお互いがお互いを思いやる気持ちが強すぎるがゆえに前へ踏み出せずにいるだけなのだから。
「……そんなに世間体って大事かなぁ」
「え?」
「あたしに言わせれば、ベアトはちょっと考えすぎに見えるわ。ほんとに好きなら、四の五の言わずに飛び込んでみたっていいじゃない。その後のことはその時考えればいいのよ。たとえ悪い評判が立ったって、人間いくらでもやり直しは効くんだから」
努めてマイルドに提案し、ぬるくなった紅茶をずずっとひとくち啜る。
するとベアトリクスはほっとしたような笑みを浮かべた。
「そう……そうね。そうよね。ふふ、そんなこと言われたの初めてだわ。ありがとう、マッジ」
からからと笑い、マーガレットはかぼちゃのタルトにフォークをぶすっと突き刺した。そのままひとくちでかぶりつく。
「まあ、まずは距離を縮めなきゃね。恋愛は相手ありきのことなんだし、仲良くならなきゃ始まらないわよ」
「そうね。もっと気楽におしゃべりできたらいいんだけど、アランの方が気兼ねしちゃってなかなかできないのよね……」
マーガレットは苦笑し、ベアトリクスめがけて幾分行儀悪くフォークの先を突きつける。
「じゃあ、ベアトがそうしてあげたらいいじゃない。あなたが先にそういう部分を見せれば、アランもだんだんフランクにおしゃべりしてくれるようになるかもよ?」
「えっ……!? 私から……!? できないわ、そんなこと……!」
「? なんで?」
「お、女の子がそんなことするの、はしたないでしょう?」
「えー? でも、男とか女とかいう前に人間同士でしょ? 普通に話しかければいいのよ、普通にぃ~」
「そんなの無理っ……!」
ベアトリクスは頬に手をあてがい、もじもじと下を向く。
「アランは人気者だし、私より魅力的な女の子がいっぱい周りにいるから到底敵いっこないわ……。頑張ったってどうせ無理よ……、おしゃべりの上手な女の子には絶対負けちゃう……」
(うーん……。この二人ってかなりの似た者同士なんだわ……)
……体裁や世間体を重視しすぎて、恋を進めることにはひどく消極的。相手のことを神格化しすぎるあまり、自分なんかどうせ嫌われているはずだと漠然と思い込み、次の一手が打てずにいる。
アランとベアトリクスの恋愛の仕方はびっくりするほど酷似しているようだ。
(というより、それくらいお互いのことが大切ってことかな)
もともと身分差のある二人の場合、関係を進展させるには勇気も覚悟も必要だ。若いからといって勢いで飛び込めるものでもない。二人が慎重になるのも当然だ。いくらこの時代の風潮に疎いマーガレットとてそれくらいの理屈はわかる。
(だけどこの二人の場合はタイムリミットがあるわ。デビュタントボールが終わればベアトリクスはもう女性としては一人前、そのまますぐ誰かの花嫁候補として社交界に押し出される。運が悪ければ、アランはもう現状打破どころじゃなくなっちゃうわよね……)
何しろこんなに綺麗な少女なのだ、彼女を妻に迎えたいという男性は大勢いるだろう。そうなってしまえばもうアランには勝ち目がない。身分差が邪魔をする上、より有力な貴族の令息にはどうしたって勝てっこないだろう。
やはり二人の恋を無事成就させるには、アランをデビュタントボールに出席させること、そしてベアトリクスの本格的な花婿探しが始まるまでに彼に告白させることが肝要だろうとマーガレットは考えた。
そしてもう一つ――
「ねえ、よかったら、あたしに協力させてくれない?」
「ええっ!?」
ベアトリクスは藍色の瞳に困惑の色を浮かべる。
「なあにぃ? もしかして、十二歳の子供に一体何ができるのって思った~?」
「お、思ってないわ! ただ、あんまり親身になってくれるからびっくりしただけで……」
彼女は「本気で言っているのかしら」とでも言いたげに、マーガレットの顔をまじまじ見つめた。それもそのはず、長きにわたって続いてきた階級制度はたかだか十二歳の子供にひっくり返せるようなものではないのだ。
しかし、前の人生でやりたいことを思うさまやれなかったマーガレットとしては、もっとベアトリクスには貪欲になってほしいと思う。
ベアトリクスは自分たちの恋愛が身分差によって難航しているのだと思っている。だが、それは勘違いだ。これまで前例がないというなら自分が先駆者になったっていいではないか。それくらいの情熱は持ってほしいと思う。
第一、ベアトリクスはまだ生きているのだから、叶えたいことは生あるうちにどんどん叶えていかなければ――。
「あたしね、二人はとってもお似合いだと思うの。だから、階級制度とか周りの目とか気にしないで、絶対幸せになってほしいの。まだ時間はあるんだし、ベアトもやれるところまで頑張ってみようよ。ね?」
「そ、それはもちろん、貴女が協力してくれるなら心強いけれど……」
「よしきた、任せておいて!」
恋愛において、第三者に仲介役を頼むのは何ら不思議なことではない。娼館にいた頃、姉貴分の娼婦たちもよく使っていた常套手段である。
もちろん頼む相手を間違えれば悲惨な結果になるが、その点マーガレットなら安心安全だ。
そもそもアランよりうんと年下だから、彼が恋愛対象として意識する可能性はかなり低い。
第一、身近にこんな麗しい美少女がいるのだ、わざわざ十二歳のマーガレット相手に懸想するはずもない。ベアトリクス一人をひたすらに愛している彼ならばそんな危険な橋は渡らないはずだ。
あとは二人の関係をそばでそれとなくサポートし、ベアトリクスが花婿探しをさせられる前に二人をくっつけてしまえばいいのだ。
(あたしってはなんていいアイデアなの~!)
「よーっし! ここはマーガレットさんが一肌脱いじゃうぞぉ〜!」
「え? え……?」
ベアトリクスは、にこにこ笑顔のマーガレットを見て困惑の表情を浮かべた。