間章Ⅳ 盤上の駒の遊戯

 
 王太后の私室に足を踏み入れたクロードは、いつものように深紅のカウチに寝そべる老婦人の姿を認めて声をかけた。
「……お呼びでしょうか、王太后様」
 王太后ヴィルヘルミーネは、クロードを見つめて艶然と笑った。
「いらっしゃい、シャヴァンヌ。来てくれないかと思っていたわ」
 侍従を使って自分を呼び出したのは彼女の方だというのに、ヴィルヘルミーネはそんなことを言う。
「何せ王太后様直々のお召し出しですから、ご命令に従わないという選択肢はございません」
 ついついそんな憎まれ口を叩いてしまったが、ヴィルヘルミーネはさもおかしそうにくつくつ嗤う。
「あらあら……。いいのよ? 嫌なら無理に従わなくたって。……ただし、その後どうなるかはわかっているでしょうね?」
 クロードは苦笑する。
 
 この女性は怒りの沸点こそ高いものの、一度実行に移すと決めたことは必ずそうしてしまうのだ。
 王も、王妃も、姫君たちも……。みな、この王太后の手のひらの上で踊らされているに過ぎない。
 ただ傍観していると見せかけて、実際はとてもよく人を見ている。しかも単に観察しているのではない、睥睨しているのだ。
 そんな彼女がひとたび牙を剥けば、あとは無惨なものである。
 
「お酒はいかが? シャヴァンヌ……。スフェーン有数の産地から届いたばかりの、とっておきの美酒よ」
 グラスに琥珀色の蒸留酒を注がせ、ヴィルヘルミーネはそれを手の中で弄んだ。
「おや、わかっていらっしゃるかと思っていましたが」
 勧められた酒杯をやんわりと断ると、彼女は――王太后はにっと笑った。
「……ああ、そうね。あなた、飲めないのだったわね」
「申し訳ございません」
 悪びれずに言うと、ヴィルヘルミーネは緩やかに首を振る。
「いいのよ。こんなものはただの暇つぶし。あればあったで愉しいけれど、なくたって別に困りはしないわ。ただ人生に色を添えるだけの小道具でしかないのだから」
 グラスをゆったりと傾け、彼女は酒を喉奥に流し込む。
 芳醇な香りと味わいを心行くまで楽しんだ後、満足げに顔を上げた。
「……ふふ。あなたは本当によくやってくれるわね。一人目の術者が殺されたときはどうしようかと思ったけれど、あなたが優秀な魔導士で助かったわ」
「邪魔は入りましたがね」
「ふふ。それくらいの障害がなければ逆につまらないのではなくて? あの娘もリシャールのために随分と奔走したようだけれど、結局あなたには勝てなかったわね」
 ヴィルヘルミーネの手の中で、美酒を満たした杯がゆらゆらと揺れる。
「今のリシャールはあなたを信じ切っているわ。あの目を見てごらんなさい。まるであなただけが人生における羅針盤であるかのような目つきだわ。……ふふ、あの子エリザベスが今のあなたたちの姿を見たらどれだけ悔しがることか。あれだけ必死に忠告していたのにねぇ……」
 彼女の言葉通り、第二王妃エリザベスの涙ぐましい努力はすべて水の泡となった。
 愛しい王を守り抜くために力の限りを尽くした彼女は、結果としてこの女の策の前に敗れることとなった。
 ヴィルヘルミーネは満ち足りた様子で低く嗤う。
「造作もなかったわね、あの子を消すのは。あなたのおかげだわ、シャヴァンヌ」
 そこで彼女は、ぐるりと周囲を見渡した。
「優れた術者はわたくしの誇りよ……。彼らみたいにね」
 ヴィルヘルミーネは背後に控えている黒魔術師たちを指し示す。
 ……上質な宮廷服に、魔術媒介となる貴石のピアス。
 一見すると普通の魔導士と何ら変わりない姿だが、彼らはれっきとしたお尋ね者である。
 教会本部に追われて逃げ込んできたところをヴィルヘルミーネが助け、それ以来自らの手駒として働かせているのだ。
 魔導士館で表立って働くことができない代わり、彼らはヴィルヘルミーネのしもべとして秘密裏に動いている。
 毒薬を作り、王宮の内情を探り、彼女にとっての気に入らない政敵を始末する。それが仕事だった。
 中には染みや皺を改善する妙薬を献上した術者もいるそうだ。過去に美女と名高かったさる王妃のごとく、ヴィルヘルミーネの肌ははりがあって艶やかだ。頬骨など、富貴の光沢で光り輝いている。
 
 後宮が男子禁制とはよく言ったものだ、と、クロードは彼らの姿をつぶさに見つめた。
 見たところ様々な服装の者が揃っているようだが、共通しているのは全員男だということだ。
 彼らは魔導士としての規律を破った者ばかりで、みな一様に若い。まだ二十かそこらの若者の姿も見受けられる。
 つまり、彼らはみな、魔術に対する強い好奇心から若くして破滅の道を辿ってしまった「違反者」なのである。
 そんな彼らがヴィルヘルミーネのような老女の傍らに侍っているというのはなんとも異様な光景だった。
 王室女性たちの長とも呼べる王太后がこのありさまなのだから、スフェーン宮廷というのはなかなかに堕落していると言えるだろう。
 
(このように若い男たちを私室に引き込んでいるとは……。いかな目的のためとはいえ、私には少々信じがたい光景だ)
 
 王太后ヴィルヘルミーネのこの気性の荒さと好色さは、王妃であるシュザンヌと似通った「何か」を感じさせる。これもアウグスタスの血のなせる業なのだろうか……。
 平素は彼女たちが伯母と姪の間柄だという事実を信じられないクロードも、こうして王太后の私室に一歩足を踏み入れるとすんなり納得してしまうのだった。
 
 ヴィルヘルミーネはカウチに横たわったまま、クロードを見上げる。
「引き続き術の強化をお願いするわ、クロード・シャヴァンヌ。たとえ魔術の痕跡が暴かれようとも、近臣のあなたなら何も怪しまれずに済む。お得意の話術でうまく言いくるめてしまえばいいんだものね?」
 クロードの唇から力ない笑いがこぼれる。
 最初に声をかけてきたのは彼女の方だ。
 だが、こうして実際に付き合ってみれば、彼女は共犯者としてこの上ない逸材だった。
 彼女は悪魔さながらに知恵が回る。どうすれば自分たちがうまく立ち回れるのかをよく把握している。
 そして、クロードよりもクロードのことを理解している――。
 
(長年の王宮暮らしがそうさせたのだろうが……末恐ろしい女性だ)
 
 息子を地獄の苦しみに喘がせること、そしてそのうえで素知らぬ顔をし続けることも、この女性にならば容易にできる。
 彼女は相手の弱みをよく理解しているのだ。だからこそ決定的な一打を与えることができる。
 クロードにとっては迂闊に敵に回したくない女の一人だった。
 
 彼女はチェス盤の上で相手の動きや戦局を読むように、じっくりとその人物の癖や出方を見極めている。
 自身が優勢となるように。不意を衝かれて危うくならないように。
 そして王手に持っていくために、いかなる場合でも的確な攻め方をする。
 
 盤上で王手から逃れるには、相手の駒から逃げるか、相手を獲るか、もしくは他の駒を利用して妨害するかしかない。
 今のリシャールはまさに脱出するすべを持たないキングの駒だった。
 チェック・メイト詰みは目前、あとは獲られるか投了リザインするかのどちらかしか残されていない。
 いや、防衛力を失って投了するどころか、時間切れとなってゲームを終了させられるという可能性もある。
 何故なら、クロードこそが彼を裏切っている最大の敵駒だからだ。
 
(そう……。あなたの一番身近にいるこの私こそが、あなたの敵。虎視眈々とあなたを獲ろうと目論んでいる駒だ)
 
 黒は白、白は黒――。
 敵と味方は表裏一体。なればこそ、この遊戯ゲームは面白いのだ。
 何も知らない幼稚な王を追い詰め、従順なふりをしてじわじわと劣勢へ導く。
 勝敗が歴然としているからこそ、彼に尽くすのは愉しかった。
 彼が自分を痛めつけるたび、この上ない優越感が心を満たす。
 ……孤独で愚かで可哀想なリシャール。
 それで気が済むならいくらでも踏みにじらせてやる。人としての尊厳さえ貶めさせてやる。……それで本当に満足だというのなら。
 
(陛下。私はあなたのようにつまらないやり方はしない。あなたのように声高に権利と努力を主張し、あまつさえそれで周囲を言いなりにさせようなどとはけして思っていない……。だが、あなたはそれでいい。そのままでいればいい。ここまで這いあがってくる必要など、そもそもあなたにはないのだから……)
 
 ヴィルヘルミーネはクロードの瞳の奥に自らと同じ感情の色を読み取ったのか、わずかに唇を持ち上げた。
 次いでひらりと手を振る。
「お話は終わりよ。あの子に探し回られては厄介だわ。もうお行きなさい」
「……ええ。失礼いたします、王太后様」
 
 
***
 
 リシャールは、プランタン宮の廊下を進んでいた。
「……クロード!! クロードはおらぬか!!」
 声を張り上げると、周囲の騎士や官僚たちが怯えて道を開けるのがわかる。
 乱心したとでも思われているのか、それとも単に小ばかにしているのかはわからない。
 だが、好意的な目で見られていないことは明らかだった。
「クロード!! どこにおるのだ!! くっ……、執務の途中だというのにどこへ消えた……!?」
 その時、宵闇のごとくしっとりとした低音が響いた。
「――私はこちらに」
 ささやくように言い、廊下の向こうからクロードが姿を現す。
 密やかなたたたずまいのクロードは、いつものように静かに歩み寄ってくる。
 その落ち着いた態度に、リシャールは思いがけず安堵した。
 クロードの姿を認めるたび、自分でも驚くくらいほっとしてしまう。
 
『そのような身分のよくわかりもしない男を、おそばに侍らせるべきではございません』
『そうです、陛下。お戯れもいい加減になさいませ。出自すらもよくわからぬような浮浪者なのですよ。宮廷で働かせるには不向きです』
 
 クロードを宮廷へ出仕させるにあたり、廷臣たちは口々にそう諫言してきた。
 だが、リシャールは彼にしては珍しく自らの意見を貫いた。
 
 正妃として花嫁をあてがわれたときも、彼はヴィルヘルミーネの言いなりになっているしかなかった。
 アウグスタス派の進言もあり、とうとう自分で妻を選ぶ権限を与えてはもらえなかったのだ。
 けれど、エリザベスという寵姫の存在が、彼のあり方をしだいに好転させていった。
 おっとりしていながらも意志の強い彼女は、リシャールに積極性というものを学ばせてくれた。もっと自分の考えを表に出すべきだと主張し、光射す場所へ彼を引っ張り上げてくれたのだ。
 
(そういえば、そのエリザベスでさえこやつのことは嫌っていたのだったな……)
 
 リシャールは眉宇をひそめた。
 クロードが宮廷に出仕しだした頃というのは様々な出来事が頻発していた時期だった。
 シュザンヌの最初の不義密通が明らかになる、清紗が後宮入りする、アルマンディンとの仲が悪化するなど、とにかく目まぐるしい時期だったと記憶している。
 そんなわけで当時は非常にせわしなかったが、気まぐれで拾ったクロードが予想以上の働きをする男だということがわかり、ほっとしたのも事実だ。
 彼に政務を任せきりにしてしまったこともあるが、支障は何一つとして出なかった。それどころか政務はおしなべてよい方向に進んだのだ。
 
 (あの頃、確かエリザベスは……)
 
 ……エリザベスは、ある時不調を訴えだした。そしてそれを境に、だんだんとやつれていった。
 宮廷医は身ごもったことが原因だろうと言って取り合わなかったが、彼女の不調は出産後も延々と続いた。
 よくよく考えれば、そんな状態でバイオレッタを産み落とすことができたのは奇跡に等しい出来事だったのかもしれない。
 むろん、リシャールにそこまで大した知識はない。だが、当時のエリザベスは傍から見ても顔色が悪く、宴席で倒れたことも一度や二度ではなかった。
 彼女は事あるごとにクロードを批判した。
 彼をリシャールのそばに寄せ付けぬよう、必要以上に注意を払った。
 最初は元浮浪者という出自のせいだろうと思った。そうした輩に慣れていないのだろうと。
 
 だが、彼女はもっと違うことを唱えた。
 ……彼はあなたにとっての厄難、『招かれざる客』だ、と。
 
 リシャールは大して気に留めずにいた。心身ともに不安定な状態なのだろうと、聞き流した。エリザベスには輿入れ当初から不思議な言動が目立っており、周囲とうまく馴染めないことも多かったのだ。
 しかし、そうやってリシャールがクロードを重用する度に、彼女は悲しそうな顔をした。うまく伝えられないことがもどかしいとでもいうように、リシャールを見た。
 
(どうして今頃になってこんなことを思い出すのだろうな……)
 
 そこでふと、リシャールは違和感を覚えた。
 琥珀の双眸を見張り、口元を手で覆う。
(なんだ……? 何かが引っ掛かる……)
 何かが決定的に噛み合わないのだ。
 複雑に絡んだ糸が、どうしてもほどけない。
 リシャールの身には理不尽な終焉が降りかかろうとしている。もはやそれは避けられぬ事態だ。
 だが、もしかするとそのために犠牲になった者というのもいたのではなかったか――……。
 
「――陛下。いかがなさいましたか?」
「! ……。いや。なんでもない……」
 リシャールはすう、と大きく息を吸い、吐き出した。
 無意識に絹のクラヴァットを手で緩め、ごくりとつばを飲み込む。
「そういえば……私をお探しだったのでは?」
 クロードの言葉に、リシャールはキッと彼を仰ぎ見た。
「ああ、探していたとも! お前、一体どこへ行っていたのだ!? 執務中は国王執務室を離れるでないと、よくよく言い聞かせているだろう!」
「そうは申されましても……」
 クロードは困惑した様子で瞳を伏せる。
 リシャールはその腕に自らの指先を食い込ませた。
「僕の補佐役としていつでもそばに控えておれと、一体何度言えばわかる!? 勝手にふらふら出歩くな!!」
「……申し訳ございません」
 意見しても分が悪いと思ったのだろう、クロードは殊勝に謝罪の言葉を口にする。
 その様子にまたしても苛々してきて、いきり立ったリシャールはクロードを打擲した。
 顔を上げかけたクロードの頬を、勢いに任せて拳で打つ。
「……っ!」
「このっ……!! 謝れば済むと思うでない!! お前がいない間、僕がどれだけ困ったと思って……っ!!」
 何度も何度も拳を振り上げる。
 どれだけクロードが呻いても、行き交う宮廷人たちが怪訝な目で二人を見ても、かまわず殴りつけ続けた。
 ……刹那、ぶつっと嫌な感触がして、指輪の突端がクロードの肌を傷つけてしまったのだと悟る。
「……!」
 はっとして手を止める。
 クロードは切れた唇の端をそっと手の甲で押さえた。男らしく厚みのある唇は指輪の装飾によって切れ、わずかに血が滲み始めていた。
「陛下……」
「……クロード、僕は」
「それほどまでにこの私をお探しだったとは、露ほども知りませんでした。申し訳ございません」
「いや……、いい。わかればいい。……すまぬ」
 今更ながら反省して唇の血を拭ってやろうとすると、クロードがわずかに身を引いた。
 
 クロードはいつもこうだ。
 優しい男ではあるが、どこか他人行儀なところがあって、つかみどころがない。
 触れようとすれば、霞のように手をすり抜けてしまう。
 心もまた同じだ。決してリシャールには覗かせない部分というのを持っている。
 それはクロード自身がリシャールに近寄ってこられたくないと思っているからなのか、それとも……。
 
「……私のことはさておき、お加減が悪そうでいらっしゃいますね」
「あ、ああ……。なんだか頭がもやもやするのだ。執務机に向かっていても一向に考えがまとまらぬ。また例の呪いが進行しておるのだろうか……」
「よろしければまたお身体を見て差し上げましょうか。安眠のための術を施して差し上げることも可能ですが」
 国王執務室の隣には寝室が設けられている。
 執務の合間に国王がやすむための私的な空間で、寵臣や気に入りの臣下以外は立ち入れない決まりになっていた。
「……頼めるか?」
「もちろんです。私の闇の力はそのためのものです」
 リシャールはそこで急に情けなくなった。
 ……誰かに支えていてもらわなければ立っていられない王など、王とは呼べない。
 王とはすなわち国の主、神にも等しい存在だ。神の恩寵をその身に受け、偉大なる御業をもってして国を繁栄へと導く者。……なのに。
「僕はヴァーテル女神の血を引く、れっきとした女神の末裔だ。誇り高き女神の血脈をこの身に受け継ぎし者だ。だのに……!! なぜ、なぜ僕の身に奇跡は起こらぬのだ……!! なぜ……、いつまでもこのような、子供じみた姿で……っ!!」
「陛下……」
 リシャールは廊下の壁をダンと叩いた。
「くっ……、このようなふざけた術を施したのは、一体何者なのだ……!! 一国の王の身にこんなばかげた奇術を施すとは、万死に値する!! 見つけ次第、この手で八つ裂きにしてくれるわ……!!」
 リシャールはきつく拳を握りしめる。
「この身に本当に女神の血肉が宿っているというなら……。ならば運命を覆すことなど訳はない。そうであろう……、エリザベス……?」
 この世でただ一人信じられる寵姫の名を、噛みしめるようにつぶやく。
「……」
 相対するクロードは、彼のそんな様子を氷のように冷たいまなざしで見つめていた。
 
 
***
 
 
 ……同じ頃、西方の島国エピドートでは教皇ベンジャミンが動き出そうとしていた。
 
 ここは王都ピスタサイト中心部にそびえるヴァーテル教会の本部である。
 教皇の座に陣取ったベンジャミンは、はらりと羊皮紙の束をめくった。
「さて……」
 年寄りめいた動作で側近に耳打ちし、二人の幹部を呼び寄せる。
「――さあ、お仕事だよ。僕の騎士さんたち」
 ぱんぱん、と手を叩く。
 すると教皇の座から向かって左、『紅の間』からは黒髪の少女が、右側にある『青の間』からは長剣を佩いた青年が、それぞれやってきた。
 漆黒の膝丈ドレスに身を包んだ少女の名は、スピネル・アントラクス。
 教会に戦力として使役される魔物が所属する『ルヴィ隊』の隊長だ。同時に精鋭コランダム隊の筆頭騎士も兼任している。元はバンパイアだが、今は捕縛されて教会本部で働いている。
 もう一人、いかにも貴族めいておっとりとした青年の名はラズワルド・ヴェルーリヤという。名門ヴェルーリヤ家の嫡男にして、サフィール隊の隊長。名門出身でありながら、家督を継がずに騎士となることを選択した奇特な青年である。
 ラズワルドのまとめる『サフィール隊』は純粋な人間のみで構成された隊で、スピネルのまとめるルヴィ隊とは対をなす組織と呼んで差し支えない。
 彼もまたコランダム隊の筆頭騎士として選出されており、もう一人のリーダーであるスピネルとは公私ともに親密な間柄である。
「ふふ。ご機嫌麗しゅう、ベンジャミン教皇様」
「僕たちを呼び出されるとは、火急の要件なのですか?」
 二人はそれぞれの反応を見せる。
 スピネルはドレスをつまんで小悪魔めいた笑みを見せ、ラズワルドは礼儀正しくお伺いを立てるといった具合に。
 ベンジャミンは微笑し、癖のある栗色の髪を静かにかきあげた。教皇の証である王笏で、トンと床を鳴らす。
「そうだよ。それも、一刻を争う事態だ」
「まあっ。ベンジャミンがそんなこと言うなんて! 面白ーい、これは久々に大捕り物になりそうねぇ!」
 ラズワルドが慌ててスピネルをたしなめにかかる。
「こら、スピネル。だめだよ。きちんと『教皇様』と呼ばなければ」
「あら、いいじゃなーい。あたしたちはヴァーテル教会でもトップクラスの実力者。作戦会議(こんなところ)で肩ひじ張ってても仕方がないでしょ?」
 動じたそぶりも見せずにスピネルが返すと、ラズワルドは大きなため息をつく。
「何を言うんだい。教皇様は僕たちのあるじも同然のお方、それもこの国の≪礎≫なんだよ?」
 そこでベンジャミンは二人を眺めやり、ははっと笑った。
「いいよ、ラズワルド。確かにスピネルが言うことももっともだよね。幹部同士が腹を割って話さないというのはよくない。ここは普段通りでかまわないよ」
「わーい! だからベンジャミンって好きなのよぉ。やっぱ、ラズより話がわかっていいわよねぇ」
 スピネルは両手の指先を組み合わせてきゃはっ、と笑う。
 ラズワルドは呻き、眉間を押さえた。
「……悪かったね、話のわからない男で。どうせ僕は教皇様よりも堅物だよ」
「まあまあー。けど、そういうのって若人の特権だよね。僕はすっごくうらやましいけどなぁ」
「ですが教皇様、スピネルはいつだってこうなんです。僕を振り回すようなことばかりするんですから」
「でも、可愛いじゃない? それを愉しむのも恋の醍醐味だろう? 君が器の大きい男になれれば万事解決なんだしさ」
 からりと笑い飛ばし、ベンジャミンは再度王笏を打ち鳴らした。
 すっと表情を引き締めると、二人を順に見やる。
「さて、それじゃあ本題に移るよ。……火の邪神ジンが復活しようとしている」
「な……!?」
「まさか……!?」
 二人ははっと息をのみ、居住まいを正した。
「そんな……、ベンジャミン、嘘でしょ?」
 スピネルの言葉に、ベンジャミンはピンとはねた襟足の毛を撫でつけながら「残念ながら事実だよ」と告げた。
「ジンが依代よりしろを得たことはもう何百年も前から知っていたんだけれどね。どうやらここ数百年の間で急激に魔力を蓄えつつあるようなんだ。彼女が実体を持つのも時間の問題だろう」
 ラズワルドは聖剣の柄に手を添えながら身を乗り出す。
「……そんな。そのような兆しがあったのですか? ジンが女神だったというのも僕には驚きですが……」
「邪神ジンは女の姿で人の前に現れるんだ。そして人を誘惑し、堕落させて無理やり契約を結んでしまう。わが教会本部が崇める女神ヴァーテルとは犬猿の仲だったそうでね。眷属を巻き込んでの諍いも多かったんだよ。まあ、それもここ千年ほどは全くなかったわけなんだけれどね」
「力を蓄えていたということかしら。でもおかしいわよね? 原初の時代に、彼女はヴァーテルによって封じられているはずよ」
 ベンジャミンは緩やかに首を振ると、ペリドットの瞳を眇めた。
「いや……それが、ジンを手引きした契約者がいる。場所は北の大国スフェーン、それも宮廷の中だ。ここにその契約者の姿絵を用意したよ」
 そこにはスフェーンに潜伏していた宗教騎士が描いた一枚の素描画がある。
 ……確認できるのは、長い漆黒の髪と切れ長の瞳だ。
 髪をまとめた幅広のリボンは、黒鉛で濃く塗りつぶされている。上着の色もまた黒である。髪の色と相まって、一見すると全体的に暗い印象だ。
 レースをふんだんにあしらったクラヴァットには凝った細工のタイピンを留めている。この襟のクラヴァットと下に着こんだブラウスだけが、男の纏う唯一明るい色合いの衣類であった。
 男の顔立ちは上品で、どこか貴族的な雰囲気がある。一度見たら忘れられないのではないかというほど、なんとも華のある艶めいた美男だった。
「これがその依代……?」
 スピネルがまじまじと姿絵を凝視する。
 ベンジャミンはうなずいた。
「……ああ。スフェーンの宮廷魔導士、クロード・シャヴァンヌ。宮廷において国王リシャールの補佐をする人物だ。表向きは闇の魔導士ということになっているらしい。国王とは兄弟のように仲がいいんだそうだ」
「なるほど……。国王の絶対の信頼を得てさえいれば、そう簡単に嫌疑はかけられにくいと踏んだのかな」
「まあ、いざとなれば国王が庇うかもしれないわね。ここの王様の話、有名ですもの」
 年を取らない身体。退行しつつある精神。
 周囲に理解されない彼がこうした近臣に全幅の信頼を寄せていても何ら不思議はない。数少ない心の拠り所の一つとして大切にしているのだろう。
 そうなれば、国王と魔導士の絆は容易に断ち切れるものではなくなる。
 魔導士を盲目的に信じ込み、その甘言にうまく乗せられているのだとしたら?
「……しかし、国王リシャールについてはどうなさいますか? 邪神の依代に加担しているとしたら、野放しにはしておけないでしょう」
 ラズワルドがそう言うと、スピネルが「うーん」と考え込む。
「けど、単純に知らないっていう可能性も捨てきれないわよね。それなら国王までどうこうする必要はないわよ」
「だけどスピネル、この二人が癒着していないとは言い切れないだろう。そうなればこの王だって一切お咎めなしというわけにはいかないよ。それにジンは四大神よんだいしんの中でもとりわけ乱暴な性格をしているそうじゃないか。ただ己の復活のみを目的にしているはずがない。この契約には、多分もっと違う目的が隠れているはずだ」
 ベンジャミンはふっと笑った。
「そうだね。いい読みをするね、ラズワルド。さて……。三千年前に何が起こったか、二人ともよく思い出してみるんだね」
 二人は首を傾げる。
「三千年前……?」
 三千年前に起こった出来事といえば――。
「火と水の……拮抗……!? まさか……」
 三千年前、『火の水の拮抗』において、ジンは大陸の水をすべて干上がらせるという蛮行に及んだ。水神ヴァーテルと力の優劣をつけるため、イスキア大陸そのものを大規模な戦場として扱ったのである。
 ジンがよみがえり、次に行動を起こすとしたら?
「またヴァーテル相手に戦いを挑む……? 大陸をヴァーテルとの争いの戦場にして……?」
 ――神々が衝突することで引き起こされる事態。それはすなわち、大陸と五大国の転覆だ。
 またジンとヴァーテルの死闘が繰り広げられれば、大陸は恐らくただでは済まない。
 ジンは人間を強く憎んでいる。そして、同じように人を憎む者の心につけ込み、破滅のための力を与える。
 ジンの依代がその力を使わないとは限らない。そしてその先に待っているのは「無」だ。……大陸と五大国、そして人間たちにとっての。
「……それは阻止しなくちゃいけないわ! あんなことが起これば、またシエロみたいな無法地帯ができてしまう……!」
 スピネルの言葉通り、シエロ砂漠はいい例だ。この砂漠は神々の戦によって生み出された産物であり、まぎれもないジンの悪行の証明なのだから。
 この地には彼女の手下とも呼べる異形のものがはびこってしまっている。彼らは砂漠に満ちる火の力で狂暴化するのだ。
 ラズワルドもまた険しい面持ちでスピネルの言葉に同意を示す。
「ええ。それは絶対に止めないといけませんね。その契約者――『依代』をただちに捕らえましょう」
 神と契約した人間は総じて「依代」と呼ばれる。遥か昔は、その身に神を降ろし、その意志を人間たちに伝えるための器として重用されていた。
「うーん。部下の報告によれば、なんでも水神の依代の気配もすぐそばに感じるそうなんだけど……これはどういうことなんだろうねぇ」
 ベンジャミンが唸ると、ラズワルドが怪訝そうな顔をした。
「水神の依代? ヴァーテルと契約した人間がどこかにいるということでしょうか」
「さあねえ……、そこまではわからないけど……。ただ、もし本当にそんな人間がいるなら保護した方がいいのかもね。教会でも初めての措置ではあるけど」
 ヴァーテル女神はめったに人に助力したりしない。
 四大神の中でも温和な気性を持つ彼女は、いつでも人の世を公平な目で見ているのだといわれている。
 神話によれば高潔な生きざまの人間をとりわけ愛するというが、それは教会の幹部たちにも確かめようのないことだった。何せ実際に相まみえたことのある人間は一人もいないのだから。
「年を取れないなんて、まるでベンジャミンみたいね。ここの王様」
 手渡された報告書に目を通し、スピネルが言う。
「こらこら、一緒にしちゃいけないよ。教皇様の秘密を知っているだろう?」
「ああ、そうだったわね。ベンジャミンは特殊よね。何せ、このエピドート国そのものと同化しているわけだから」
 事もなげに言うスピネルに、ベンジャミンは苦笑する。
「そうだよ。だから僕はここから動けないんだ。ただ単に年を取らないばかりじゃなくて、ね」
 
 ベンジャミンはこのエピドートの≪礎≫だ。
 エピドートが建国される折、長きにわたる繁栄のために地中に埋める人柱になった。
 もちろん好きこのんでそうなったわけではない。エピドートに根付くある慣習のためだ。
 この島国エピドートでは、人柱を捧げることでヴァーテル女神の加護をより強く受けられると信じられている。
 辺境の教会では未だに盲信している者も多く、一部では「闇の歴史」として語られているわりに誰も止めようとはしない。
 つまり、いわゆる悪習なのだ。ベンジャミンはその悪習の生き証人だった。
 しかも、≪礎≫となったあとに奇跡的に命を吹き返して教皇として崇められることになった稀有な存在だ。
 不思議なことに、よみがえった彼には国の声を聴く力が備わっていた。
 災いを予知し、戦の気配を読み取り、魔のものの襲撃を察知する。……そんな特殊な能力が。
 
 ベンジャミンの言葉を信じた時の国王は、偉大なる神力しんりきの持ち主として彼を崇めた。
 これはただならぬ力だ。神の与えたもうた導きの力だ。
 そう信じ込んだ国王は、ベンジャミンに「教皇」という特別職をあてがい、ヴァーテル教の祖として宝冠をかぶせた。
 外見年齢は当時から――国に命を捧げた十九のときから、一切変化していない。もう千年近く生き続けているにもかかわらずだ。
 だが、ベンジャミンは蘇生と同時にエピドートから離れることのできない存在になってしまっていた。
 肉体と精神が国そのものと融合してしまっているのだ。
 つまり、文字通り国を護るための≪礎≫となってしまったのである。
 
 幸いにしてこの国の民たちは、「神の御業」と呼んでベンジャミンを慕ってくれる。このベンジャミン本人にさえ何が起こったのかよくわかっていない現象を、好意的に解釈してくれる。
 不老不死であることさえ、彼らは神聖な力をその身に宿しているせいだといって畏怖する。
 国王でさえ、ベンジャミンへの敬意を忘れない。この国のもう一人の為政者であるかのような扱いをし、水の女神の使徒として彼を尊ぶ。
 
(そうだ。僕には教皇として大陸を統べるだけの理由がある。神の御業をこの身に受け、民に多大なる畏敬の念を抱かれている以上、生半なことはできない)
 
 彼は教皇の間に集った自らの手駒の顔を、じっくりと観察した。
 肘掛けにもたれると、微笑んで言う。
「だからこそ君たちに手足になってもらわなくては。大陸に跋扈する淫祠邪教いんしじゃきょうを、君たちの手で取り締まってもらわなくてはいけないんだよ」
 彼ら二人の統括する『グロッシュラー宗教騎士団』というのはそのために存在するも同義だ。
 この宗教都市ピスタサイトから大陸各地に派遣される彼らは、聖地巡礼の民を守護するほか、ヴァーテル教の威信を脅かすような異教徒を弾圧し、のさばらせないようにするのが役目である。
 この行為を教会本部では「規制」「検閲」などと呼び、宗教騎士たちの大任であるとして最重要視している。
 これらの行為は、どれほど強引なものであっても教皇の命でありさえすればほとんど拒否されることがない。……というよりは、不可能なのだ。
 教皇とはヴァーテル教の頂点トップにして、大陸における宗教的な組織のすべてを取りまとめる存在。ベンジャミンの命をはねつければ、聖職者たちは自由に動くことができなくなる。
 これは一国の王に対しても全く同じ効力を発揮した。
 
「国王リシャール、か……。どうしようかなぁ。場合によってはそれなりの対処をしなくちゃいけないけど……。五大国の王族なら、ヴァーテル教の教えから外れるような真似はもちろんできないよね。何せ、自分たちがヴァーテル女神の血族だといってのし上がってきたんだから……」
 スピネルが「うわっ」と身を引く。
「ベンジャミン、黒っ。そういうのなんていうか知ってる? 『職権乱用』っていうのよ」
「でもさ、スピネル。僕は教皇で、彼らはその配下も同然なんだよ。僕らの敬愛する女神の力を利用して今の地位を手に入れたんだ、少しくらい教皇ぼくの言うことも聞くべきじゃない?」
 スッと双眸を眇めるベンジャミンに、二人が身じろぎ、こくりと喉を鳴らす。
 剣呑な雰囲気に、二人はただただ探るようにベンジャミンを注視した。
 ……と。
「――まあ、もちろん取り締まり自体は穏便に進めさせてはもらうけどねー!」
 あっけらかんとしたベンジャミンの発言に、二人はがっくりと肩を落とす。
「教皇様……。あなたのそれは一体どこまで本気の発言なんですか。僕はちょっとだけあなたが恐ろしいです」
「ほんとほんと……。あなたって、あたしバンパイアなんかよりよっぽど魔物っぽいわ……」
 ベンジャミンは「いやぁ、そんなことないよー」と思いきり笑い飛ばし、改めて二人に向き直る。
 側近の騎士たちに必要な書状を配らせると、スピネルとラズワルド、双方の顔を見据えて命じた。
「……コランダム隊筆頭、スピネル・アントラクス、ラズワルド・ヴェルーリヤ。教皇ベンジャミンの命で、君たち二人を大国スフェーンに遣わす。依代となっている魔導士クロードを討ち、邪神ジンの復活を阻止せよ。……というわけで、今回も頼んだよ。『国守くにもりの騎士』さんたち」
 精鋭コランダム隊のリーダーである二人は、すっと頭を垂れた。
「ルヴィ隊隊長、スピネル・アントラクス。しかと拝命つかまつりました……なぁんてね!」
「サフィール隊隊長、ラズワルド・ヴェルーリヤ。確かに拝命致しました」
 ベンジャミンは、そこでもう一度手を叩いた。
「……ああ、君たち。外まで見送ってあげて。コランダム隊のトップ二人が揃って教会本部を出るなんて滅多にないことなんだからね」
 控えていた側近の騎士らがぞろぞろと二人の見送りを始める。
「国守の姫、スピネル・アントラクス様。ご武運を!」
「ありがとー! 行ってくるわね、みんなー!」
「ラズワルド様、無事のお帰りを心待ちにしております!」
「僕らが留守の間、教皇様や教会本部をよろしく頼むよ」
 ラズワルドが行儀よく言い、騎士に付き添われて扉の向こうへ消える。
 やがて、パタン……と教皇の間の扉が閉じてしまうと、ベンジャミンはくすくすと不敵に笑った。
「――さて……どうなるかな?」
 
 
 
 

 

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