≪舞踏の間≫を抜け出したクララは、金の髪の王子の腕に抱かれていた。
とてもひっそりとした逢瀬だ。……否、それはもはや「秘め事」と呼んでもおかしくはないほど、背徳的で禁じられた密会であった。
宮廷の婦人たちが好むような、ドラマティックな抱擁では決してなかった。激しく抱き寄せられたのでもなければ、熱っぽく口説かれたわけでもない。どちらからともなく自然に腕を回した。空白の時間を埋めるように。
「アスター様、ご覧になって。月があんなに高く昇っていますわ」
第一王子アスターの腕の中で月を振り仰ぎながらささやくと、彼は穏やかに相好を崩した。
「ああ……、綺麗だ。もう夏の匂いがするな」
昔は夏が来ると小川や池でアスターと遊んだ。何しろ王宮にはいたるところに川や池が作られているのだ。
川に小舟を浮かべて遊んだり、ドレスの裾をたくし上げて足を冷たい水に浸したり。ふざけてアスターの顔に水飛沫を浴びせかけるという悪戯もした。
何せ子供だったので、あの頃、夏場はそんなことばかりしていた。
当時のアスターはまだ軟禁というほどひどい状況ではなかった。エリザベスがリシャールに口添えをして、アスターやプリュンヌに少しでも自由な時間を与えようとしてくれていたからだ。
(あの方が亡くなられてから、随分と変わってしまった。王宮の様子も、わたくしたちの関係も……)
……葉陰から差し込む月明かりが、クララの白い肌をまろやかに光らせる。雪肌は穢れのない真珠のような光沢を放ち、彼女を抱くアスターの目を図らずも悦ばせた。
アスターの首に強くしがみつき、ほうっと息をつく。
「……ずっとこうしていられたらいいのに」
「それは駄目だ。僕と抱き合っていたと知られれば、貴女が何を言われることか……」
どこまでも真面目な台詞に、クララは苦笑した。
「……せっかくお会いできたのに、なんだか寂しいですわ」
「僕もだ。とても残念でならないが、もう少ししたら広間へ戻ろう。送っていく」
「まだ……、もう少しだけ、ここにいましょう? だって、またしばらく二人きりになれません。ですから、今だけは……」
クララの桜桃のごとき唇が、艶めいた願いごとを紡ぎだす。
「……!」
アスターははっとして腰を引いたが、クララはかまわずしがみついた。
「やめてくれ……、今夜の貴女はまるで悪魔だな」
「何がいけませんの? 今夜って……普段通りではありませんか」
「そんなに肩を出して、まるでねだるような甘い声で僕を……。いや……」
クララの腰を支えながら、アスターはくしゃくしゃと金の髪を手で乱す。照れているのか怒っているのか不明だが、心穏やかでない状況であることは確かなようだ。
「……さっき、面白いものを見た」
話題を変えることで気を紛らわそうとしたらしく、アスターが努めて平らかに話し出す。
「まあ。珍しいこともあるものだわ……、アスター様が面白いものを見た、だなんて……」
「茶化さないでくれ、クララ。僕が感情に乏しく人間味に欠ける男であることは確かだが、そこまで言うことはないだろう」
「ふふ、ごめんなさい? ですが、実直で飾りけのないアスター様だからこそ、わたくしはおそばにいたいと思ったのです。それだけはお忘れにならないで」
「ああ。あなたは僕のことをいつも支えてくれる。広間を抜け出して逢瀬に耽るなど、今までの僕からは想像もつかないことだ……。貴女は僕を大胆にさせる唯一の女性だ。時々、恐ろしくなる……」
クララははにかみつつもうつむいた。
折につけ、これが間違った道であることを思い知らされる。
『男が生まれたら唯一無二の友人に。女であれば娶らせる』
これはアスターが誕生したときに二国の間で結ばれた約束である。
だが、これはとうの昔に反故にされ、クララの国はすでにない。自国を滅ぼし父王と兄王子を殺したのは、まぎれもないスフェーン人だ。……目の前にいるアスターと同じ。
「……それで? 一体何をご覧になったのですか」
「クロード・シャヴァンヌを張り倒すピヴォワンヌ姫、そしてシャヴァンヌに連れられて庭先へ出ていくバイオレッタ姫だ」
クララは首を傾げてアスターを見る。
「まあ……。確かに面白いわ。それに、まるで真逆の行動ですわね」
「そうだろう? どうやらピヴォワンヌ姫はシャヴァンヌがあまり好きではないようだな。広間に響く大声で罵倒していたぞ」
「……それは、なんといったらよいのか」
だが、クララが関心を持ったのは彼女ではなかった。バイオレッタの方だ。
(バイオレッタ様……、もしかしてシャヴァンヌ様のこと……)
年頃の少女であるとはいえ、女の勘はじゅうぶんに働くものだ。
年若い貴族の令嬢たちなどは、サロンに集まるといつもそんな話題で盛り上がっているくらいである。……つまり、誰が誰に恋をしていて、今どういう状況にあるのかということだ。
そこまで熱心に語る気はなかったが、単純に気になった。
あのおっとりと優しそうな姫が、クロードと恋仲になったら。
それはそれで興味深いし、面白いことになりそうだと思う。
「しかし……あのシャヴァンヌという男は女に相当人気があるようだな。宴が始まってすぐ、高貴な身なりの女性たちにぞろぞろと取り巻かれていたぞ。夫がいる貴婦人、社交界に出てきたばかりの令嬢、裕福な未亡人……。仕事熱心かと思っていれば、なかなか余裕があるんだな」
「神秘的で美しい殿方だといって人気があるようです。あの黒髪は確かに目を引きますわよね」
黒髪に黄金の双眸というのはスフェーンではほとんど見かけない色合いで、おまけに本人も憂いのある表情がさまになる美形だ。あれでは女性たちは放っておくまい。
「……なんだ。貴女もシャヴァンヌが好きなのか?」
拗ねたような声でアスターが訊く。
クララはとんでもないとばかりにぶんぶん首を横に振った。
「まさか! わたくしはそこまで興味はありませんの。ただ、後宮ではよくお見掛けするのです。お話させていただくこともあるのですが、穏やかで優しそうな方ですわね」
アスターはそこで、つまらなさそうにそっぽを向いた。
「……気に入らないな。貴女と話ができるばかりか、そんな風に褒めてもらえるとは」
「そんな……、わたくしは決してそういうつもりでは」
「なら、僕の前でそんな話をするのはよすんだな。貴女がシャヴァンヌに関心がないのならなおさらだ」
関心など、あるわけがない。
クララとて、別段アスターを妬かせたくてこんなことを言っているわけではない。ただ、単純に仲がいいと打ち明けただけだ。
(だけど……軟禁されていらっしゃるアスター様にしてみれば、やっぱり面白くないわよね)
クララが慕うこのアスターという青年は、自由もなければ富や権力といったものもない男だった。
尖塔に隠されるようにして軟禁され、王族らしい贅沢も禁じられている。
クララはいつもそれを痛ましく感じていた。
月光にきらきらときらめく豪奢な金の髪に触れ、クララはそっとつぶやく。
「……婚約のお話が、流れてしまわなければよかったのに。あなたが軟禁などされずに、正統な王子としてずっと遇されていらしたらよかったのに……」
「それを言っても仕方がないだろうな。だが、僕も常々同じことを考えている。あのまま、貴女が僕のところに花嫁として来てくれていたらと、叶いもしない夢を見てしまう」
「わたくしたちは今確かに互いを想いあっているのに、ずっと一緒にいられないなんて切ないですわ……」
……スフェーンの王子アスターと、アルマンディンの姫クララ。
二人の間にはかつて縁談が持ち上がっていた。
といっても前述のとおりで、アルマンディンで誕生した子供が王子なら友人に、姫であれば花嫁として娶らせるというくらいのものだったらしい。しかし、それほどまでにアルマンディンの先の王――クララの父王は、スフェーンを信頼していたのだろう。
名門出身のユーグは彼に特別目をかけられており、将来、二国間に架け橋をかける役割を任せたいとまで言われていたそうだ。
それを彼は、子供心にとてもよく覚えていると語った。
クララの兄王子であったロベリオも、存命でありさえすれば今頃このアスターと友人同士になっていたのかもしれない。
だが、互いの国益の不合致、領土の拡大などといった理由から、二国は瞬く間に敵対する仲になってしまった。
そして戦が起こり、王宮でも大規模な殺し合いと略奪が繰り広げられた。
幼子であったクララは、母妃やユーグとともにこのスフェーンの地に護送されることとなった。……父王と兄王子を城に残して。
もちろん年齢からしても覚えているはずもない出来事だ。
だが、ユーグに初めてそうした事実を聞かされた時、クララは自責の念に駆られた。
女だからというだけで生き延びてしまった。父や兄を見捨て、自分一人だけ生きながらえてしまったと。
『クララ様。ご自分を責めてはなりません。エリザベス様のご厚意をむげになさるような発言は控えてください』
『だけど……っ!!』
わっと泣き伏したクララに、ユーグは言った。
『今の貴女様がなさるべきことは、後ろを向くことではない。前を見て、生き続けることだ。いつか国王陛下やロベリオ殿下の無念を自らの礎とする日が来ます。お二人はそのためにクララ様を生かしたのです。そして私は、どのようなことがあろうとも貴女様を守り抜く所存です。……貴女様の御命のため、どうぞ私をお使いください』
そうしてこの城に囚われ、国王リシャールの『従属の証』となって早十六年。
皮肉なことに、クララはアルマンディン王女という立場でありながら自らの国を綺麗さっぱり忘れ去ってしまっていた。
どんな城で生まれたのか、母妃レオノーラはどのような顔をしていたのか。
アルマンディンにまつわるすべてのことが、思い出せないのだ。
何せまだ嬰児だったのだから仕方がないことなのかもしれない。だが、かの国の王女と名乗るには、クララはあまりにもスフェーンに馴染みすぎてしまっていた。
(お母様のことは、エリザベス様から何度も教えていただいたわ。美しい女性だったこと、お父様に仕える宮廷魔導士をしていたこと。晩年は病がちだったこと……。エリザベス様とは姉妹のように仲が良かったのだということも)
そもそもエリザベスという女性は、相手の懐に入り込むのが上手な人物だったのだろう。だからこそ異国の王妃であるレオノーラとも親しくなれたのだ。
そうでなければ劉出身の清紗が心を開くはずがない。アスターやプリュンヌが実母のように慕うはずがない……。
クララはそこでふう、と息をついた。
「疲れたのか?」
「あ、いえ……。一体いつまでこんなことを続けるのかしらと思っただけです」
批難されたと思ったのか、アスターはクララを抱きしめるのをやめた。
「……すまない。僕に瑕疵があるばかりに」
アスターは折につけそう言ってすまなそうにする。
まごうことなき第一王子という身分を与えられているにも関わらず、彼は自らに対する評価というものがとても低いのだ。
「いいえ。アスター様に瑕疵なんて。まさか、またその瞳のことを言っておられますの?」
そこでアスターはクララから身を放し、自身の左目に手をやった。
……向かって右の瞳には、いつも薄い色硝子が嵌め込まれている。紅薔薇のように紅い色彩を覆い隠すためだ。
リシャールと同じ金の髪を持ちながらも、アスターの瞳は左右で色合いが全く異なっていた。
右眼はシュザンヌと同じエメラルドグリーンだが、左眼はぞくりとするようなルビーレッド。……ピジョン・ブラッドの色だ。
クララはこの紅い瞳が大好きなのに、アスターは違う。自らが忌み子として疎まれる原因になっている色彩だとして嫌がる。色硝子を嵌めて厳重に隠してしまう。
クララはそっとアスターの腕に触れた。
「……そんなことをおっしゃるのはおやめになってと、一体何度申し上げればわかってくださるのです? あなたの瞳は不吉の証などではありませんわ」
忌み子の伝承では、彼らは救世主として尊ばれる。
異教徒の前にその身を投げうって国の動乱を鎮圧してくれる存在として。
そんな伝承を残した民もいるくらいなのに、安易に不吉だなどと言わないでほしかった。
必死で説くと、アスターはふっと笑う。
「貴女だけだな、そんなことを言ってくれるのは……」
その声にどこか自嘲するような色が混ざっていることに気づき、クララは眉根を寄せる。
「わたくし、本当はアスター様に色硝子なんて使ってほしくないのです。あなたはもっと堂々としていらっしゃるべきです。あなたはれっきとしたリシャール陛下とシュザンヌ妃の王子にして、正統な王位継承者。一体、何を悲観する必要があるというのですか」
アスターは唇を噛んで瞳を伏せる。
「だが、僕は王子として何一つ行動を起こすことができない男だ。いや、王子などと名乗るのもおこがましいな。忌み子として軟禁されている以上、僕は国政に口を出すことも、王族としての務めを果たすこともできない。ただの無力なごくつぶしだ。この瞳を持つ以上、無為徒食に生きるしかない……!」
「もちろんそれはわかっています。ですが、だからといってご自分を責めることはありませんわ。あなたの能力は、もっと別のところで発揮できるものかもしれないでしょう?」
打たれたように、アスターは口をつぐむ。
「……貴女にそんなことを言われるとはな」
「すみません」
「いや。ただ、情けない男だと思っただけだ。本当に、この卑屈さをどうにかしないと駄目だな……」
夜風がびゅっと吹き荒れて、二人の髪をさらう。
激しい風に顔をしかめていると、ふいに淡々とした問いかけが降った。
「――クララ。貴女は今のままでいいのか。こんな僕と逢瀬を重ねることに、嫌悪を感じているんじゃないのか」
「え……?」
「さっきも、一体いつまでこんなことを続けるのだろうかと貴女は言っただろう」
「あれは……。違いますの、そういう意味ではなくて……」
あれは単に、アスターとの今の関係がもどかしくなってつぶやいただけだ。
本当に、二国の関係が破綻してさえいなければ、今頃たくさんの民に祝福されていたかもしれないというのに。
「でも……お互いの身に何かが起こったりしなければ、これからも時々こうしてお会いすることはできますわね。長期的に見れば、わたくしたちの仲は継続させやすいものだと言えるかもしれません。わたくしは幸いにして捕虜の身。国王陛下の命がなければ、恐らくもう二度とスフェーンを出ることはありませんもの」
リシャールが異国の王侯貴族に下げ渡すという可能性もなくはないが、現時点ではそれはなんのメリットもない行為だ。城下に潜むアルマンディン人たちの暴動が酷くなるだけなのは目に見えている。
国の象徴たる姫を生かして捕らえておくだけで、残党たちは大人しくなる。逆らえば姫の命を奪うと言って脅し、残存勢力の勢いを削げばいいのだ。
結局のところ、今のクララはそのための切り札でしかないのだった。
(それを思えば、わたくしは捕虜でよかったのだわ)
こうして囚われている以上、アスターとはずっと一緒にいられるのだから。
「……貴女はそれでいいのか」
ふいにアスターが訊いた。
クララは若干沈んだその声音を訝しみつつ、彼の顔を見上げる。
「え? 何をおっしゃいますの? アスター様……」
「このまま囚われの身で一生を終えて、本当に満足なのかと聞いているんだ。年若く才気あふれる貴女が口にするには、あまりにも枯れた言葉に思えてならない」
「枯れている? わたくしが……? まあ、そんな……」
思わず小さな笑みをこぼすと、アスターは必死な様子で肩を掴んできた。
「貴女は、どこかに押し込められて生きていけるような女性ではないだろう。もちろん、これが僕の思い込みならそう言ってくれてかまわない。だが、僕は貴女にはもっとのびのびと生きてほしいんだ」
クララは真意を測りかねるようにアスターを見上げた。
……そこにあったのは、恐ろしいほどひたむきな顔だった。
「いつか、貴女を解放したい。後宮という鳥籠からも、捕虜の姫という足枷からも……。その時には、きっと僕という重荷もなくなって――」
「やめてください……!!」
かすれた声を張り上げ、クララはアスターのコートをぎゅっと握りしめた。
動揺のあまり、指先がふるりと震えてしまう。
「そんなことになるくらいなら、今の方がましです! どうしてアスター様にそんな悲しいことを言われなければなりませんの? わたくしは好きでアスター様と一緒にいるのです。なのに、ご自分のことを勝手に重荷だなんておっしゃらないで……!」
「……! すまない……」
狼狽しきった様子で手を放したアスターに、クララははっとして口元を押さえた。
「……」
アスターとは時折こうして口論になってしまう。クララはその度に、自分の想いだけが空回っているような錯覚に囚われる。ただ一方的にアスターに愛情を押し付けているだけなのだと思わされる。
「……。少々むきになってしまいましたわ。ごめんなさい」
「いや……」
クララだって、口論などしたくはない。いつも穏やかでいたい。
だが、二人が個別の人間である以上、意見の衝突はどうしても免れない事柄の一つだった。
沈黙が肌に刺さるようだと、クララは唇を噛む。
アスターは、果たしてこの状況が平気なのだろうか。それとも、殿方というのは女に比べるとそうした情が薄いものなのだろうか……。
クララが「むきになる」とき、アスターは大抵貝のように押し黙っている。じっと何かを思案している風でもあるのだが、もともと口数が少ないせいでその本音まではどうしても読み取れない。
その度にクララは悲しくなってしまう。やはり違うのだと。彼とは本質的な部分で相容れないのかもしれないと。
(わたくしとアスター様は違いすぎる……。いくら恋人同士であっても、どうしても交われない一点がある)
それは認めるけれど、もう少しだけアスターの考えていることを知りたいと思ってしまう。
気の置けない間柄であるはずのクララにまで、しなくてもいい隠し事をしないでほしいのだ。
「……」
クララはしばらく黙り込んでいたが、一つ息をつくと、絞り出すように言う。
「……わたくし、自由になるときはアスター様と一緒がいいですわ」
「……!」
アスターははっと息をのんだが、ややあってからどこか寂しげに微笑んだ。
「貴女は強いな。僕とは随分違う……。だが、貴女のその気丈さが好きだ。僕まで明るい気持ちになれる……」
「……よろしければこのままもう少しお話しましょう、アスター様。《舞踏の間》では宴もたけなわのようですが、幸いにしてこちらにはどなたも参りません。しばらくこうしていても咎められることはないでしょう」
クララは焦燥を押し殺すと、努めて朗らかに促した。
庭園の片隅で女主人を見守っていた従者たちは、彼女に悟られぬよう息をついた。
「よし……、誰も来そうにないな」
「ああ」
うなずき、ユーグは抱きしめ合っている二人に目をやった。
二人はこれまでの孤独な時間を塗りつぶすように、隙間なく身を寄せている。たどたどしくもしっかりと腕を回し、言葉を交わし、互いの中の温かな気持ちを共有し合っている……。
そうしたものに縁遠いユーグからしても、思わず微笑ましいと思ってしまう抱擁だった。
ユーグは堅物だが、同種の人間の匂いがするのかアスターには好かれている。
彼とはクララの話題で盛り上がることが多い。彼女の暮らしぶりや体調について訊ねられるほか、稀にそれとなく好きなものの情報を探られることもある。どんな花が好きか、今読んでいる本は何かといったようなことである。
時折チェスに興じることもあるが、一度も勝てたためしがない。一見すると朴訥そうな印象だが、アスターはあれでなかなか頭の切れる青年だった。
「地味な王子だよなー。欲がないっていえば聞こえはいいけど、朴念仁っつーか」
アベルの率直すぎる感想に、ユーグは苦笑する。
「女人の好みは人それぞれだ。クララ様がお好きだというのなら……」
ユーグの言葉に、アベルが唇を尖らせる。
「けど、はっきり言って普通じゃねえ? もっとイイ男なんかいくらでもいるじゃん。例えば俺とかさぁ」
従者としての作り込んだ態度を幾分崩してアベルが言う。腰に手を当てて胸を反らしてみせる彼の姿に、ユーグはつい噴き出してしまった。
「……まあ、確かにお前は派手だからな」
「何笑ってんだよ、お前。つーか、これくらいは派手なうちに入らないだろ。俺のはイケてるって言うんだよ。全く、わかってないなぁ、ユーグ君は」
アベルは呆れたようにばしんと背中を叩いてくる。
そういえば、とユーグは彼を見やる。
「……宴席には戻らなくていいのか? 御婦人方の相手をしていたんだろう」
「ああ、彼女たち? 単に物珍しいから寄ってきてるだけだろ。そういう意味じゃ、俺なんか見世物小屋の珍獣と同じだよ」
城で働くアルマンディンの男というのは珍しい。下級魔導士の中にも数名いるにはいるが、ごく少数だ。
刺激に餓えた女性たちにしてみれば、ユーグやアベルといった異国人の男は興味深く面白いものなのだろう。
「どうでもいいが、あまりつれなくするとあとが恐ろしいぞ」
「あー、お前のとこに泣きついてくるんだっけ? けど、俺にだって選ぶ権利はあるしな」
銀髪をさらりとかきやって、アベルは大胆不敵に笑う。
彼は目下の想い人であるミュゲに夢中だ。そもそも初めて会った時から好印象だったのだそうだが、それでなくともか弱くなよなよした芯のない女性は端からお断りらしい。
「まあ、情報さえもらえればあとはほとんど用はないからな」
「なるほど」
アベルはその容姿を生かして、薔薇後宮を拠点とした諜報活動をしている。
宮廷内の動きをそれとなく探り、人間関係や派閥の内情を把握しておくのが彼の仕事だ。自らの身に何かが起こったときに役立つからと、クララは入念に情報収集をさせていた。
前もって国や人間の動きを理解しておけば、いざという時慌てずに済む。
ユーグとしても、従者にこうした任務をさせるのは捕虜の姫として理に適っているだろうと思っていた。
十四の時にクララの従者になったこのアベルという青年は、傲岸不遜ではあるがとにかく見た目がよかった。
銀の髪というのはイスキア大陸広しといえどもめったに見られないものだし、双眸も澄んだアイスブルーをしていて、自然と周囲の目を惹きつけてしまう魅力がある。
おまけに表面上は人懐っこくて朗らかなので、要らざる敵を作りにくいのだ。女官や侍女と仲良くなって情勢を教えてもらう、などというのは得意中の得意だった。
また、彼はアルマンディンに関する動向も欠かさず仕入れるようにしている。聞けば、王城に召し抱えられたばかりのアルマンディンの銀細工師とも仲がいいらしい。
アルマンディンの残党も、稀にそうやって宮廷に迎えられることがある。クララの筆頭侍女であるアンナもそのうちの一人だ。
もっとも、彼女の場合は刺客としてクララの前に現れた。
……アルマンディン王女クララが、のうのうと悠々自適の生活を送っている。故国の残党や捕虜を顧みることもせずに。
それを知った彼女は怒りのあまり脱獄し、クララのいる青玉棟に単身乗り込んできたのである。
ユーグたちが暴れる彼女を取り押さえると、クララは落ち着いた声で提案した。
『……貴女、わたくしのもとで働きなさい。着るもの、食べるもの、住むところ、学ぶための道具も……必要なものは全部揃えてあげる。代わりにわたくしに貴女の考えを聞かせてほしいの。どんな国でなら暮らしていきたいと思うか、どういう未来を望むのか。時々でいいわ、わたくしに貴女の考えていることを教えて』
クララが密かにアルマンディンの再興を目指していることは、二人ともとうに知っていた。
彼女はただ流されるままに生きていられるような少女ではなかった。
誰に教えられずとも、故国の再建を目標とすべきだということを、本能的に悟っていた。
それは水の女神の血が一等濃いといわれるアルマンディン王家の宿命のようなものなのかもしれない。
クララの一挙一動は、いつしか奔流となって大陸を呑み込むであろう、強く激しい革命の予感を感じさせた。
「……クララ様はやはり前の王の血を引いておられるのだな。堕落した暮らしぶりをよしとしないのは、ヴァーテル女神の影響なのだろう。なんとも高潔な姫君であらせられる……」
「まあな。俺らが扇動してああなってるわけじゃないっていうのが逆にすごいと思うぞ。安逸を貪るのは簡単だけど、そればっかりじゃ変えられないことの方が圧倒的に多い。変化を恐れず停滞を嫌う、革命の星だ」
クララの澄み切ったサファイアの瞳は、聖典の女神の双眸を思わせる。
大陸を建て直してあるべき姿へと導いた、大陸の救世主――女神ヴァーテルの目を。
「それにしてもさぁ。なんであんな暗ーい王子がいいんだかねぇ……。趣味悪くねえ?」
「……」
アスターが誠実な人柄であるということ、クララを本当に愛していること、だからこそ安直な行動に出ようとしないのだということを、ユーグはよく知っていた。
宮廷の風潮に任せてクララを自分のものにしてしまうのは容易い。逢瀬の機会が限られているとはいえ、彼だって立派な青年なのだから。
けれどもアスターはそれをしない。これまでに何度もそうした機会はあったはずだが、彼がクララの意に染まぬ行為に及ぼうとしたことは一度もなかった。
それどころか、見ていてじれったくなるほど慎重に距離を詰めている。
これはむしろとてもよい傾向なのではないかとユーグは思った。
「いや……、あの二人はあれでいいんだろう」
「へ? なんでだよ。いい加減くっつきゃいいのに……」
ユーグはほのかに笑う。
……勢いよく燃え上がった炎ほど、燃え尽きた後には跡形もない。そこにはただ恋心の灰燼があるだけだ。
だから、これでいいのだろう。あの二人は今のままでいい。
月を見上げながら、ユーグは穏やかな夜風に願いを託した。