第二十二章 動き始めた心

 
 ……スフェーン大国に初夏が訪れた。
 香りのよいライラックの花が咲き乱れる庭園を、バイオレッタたちは森の中の四阿パビリオンからぼんやりと眺めていた。
 丸く切り取られた天井には抜けるような青空が広がり、城の北側にある丘陵地帯からはのどかな鳥の歌声が聞こえてくる。
 東棟にある後宮書庫に行くはずだった二人は、寄り道に寄り道を重ね、今は人工池のほとりにある森林を探索していた。
 池にかかった橋を渡り、緑の迷路を抜けてしばらく進むと、そこには広大な森がある。ごく自然な形で手入れされたその場所は、二人がまだあまり足を踏み入れたことのない区域だった。
 四阿のチェアに浅く腰を下ろしたバイオレッタは、つと頭上を見上げた。
「まあ。小鳥が遠くで楽しそうにさえずっているわね。覚えたての歌が歌えて嬉しいのかしら」
「あ、でも、今の鳴き声変だったわ」
 ピヴォワンヌの指摘に、バイオレッタはこらえきれずに笑いだす。
「まあ、うふふ……! ピヴォワンヌったら厳しいことを言うのね」
「だって変だったもの」
「もう……。歌を覚えるのって結構大変なんだから、そんな可哀想なことを言っちゃだめよ」
 何せ自分が音痴だという自覚があるので、こういう時ばかりは鳥に同情してしまうのだ。
 バイオレッタはそっと瞳を閉じると、初夏の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
「……穏やかでいい匂いがするわね。ライラックって淡くてとっても綺麗な薄紫」
「本当。劉にはなかったわ、こんなに夢みたいに可愛い花」
「まあ、あなたのその表現の方が可愛いわ、ピヴォワンヌ。女の子らしいわね」
 くすくす笑うと、ピヴォワンヌは目に見えて赤くなる。
 しばらく付き合っていてわかったが、彼女は女の子扱いされるのが苦手らしい。すぐにそっぽを向いて赤面してしまう。
 もっとそういうところを見せてくれてもいいのに、ピヴォワンヌは妙なところで頑固だった。
 彼女はバイオレッタから顔を背けると、ぼそぼそと言った。
「そういうことをいきなり大真面目に言うからあんたってたちが悪いわ」
「そうかしら。わたくしはただ、可愛いものを可愛いと言いたいだけよ」
「……!!」
 ピヴォワンヌは盛大に照れた。
 次いで悔しそうに顔を歪めると、さっと立ち上がる。
「もう! 付き合ってらんないわよ。先に行くからね!」
「……そんな、待って! ピヴォワンヌは足が速くてついていけな……、……あら?」
 木立の中、ピヴォワンヌを追いかけていたバイオレッタは歩みを止めた。
「どうしたのよ?」
 ピヴォワンヌが戻ってきて、訝しげにバイオレッタの顔を覗き込む。
「あんなところに塔があるわ」
 ……森の向こうに、古びた黄金の尖塔が見えた。うず高く積み上げられたフェマール石の煉瓦でできている。
 細い屋根は臙脂色に塗られ、天辺には王家の紋章がはためく。無数の窓は屋根と同じ臙脂色のカーテンで覆われていた。
 明るい初夏の日差しの下、その朽ちかけた尖塔だけがやけに目立つ。
 ひっそりとした外観か、それとも何かを封じ込めるように閉め切られたカーテンなのか。何がそう思わせるのかよくわからないが、ひどく不気味なたたずまいだった。異様と呼んで差し支えないほどに。
「……なんだか変わった建物ね。ちょっと気持ちが悪いわ」
 ピヴォワンヌは眉をひそめる。
 
 だがバイオレッタは、次の瞬間木々の合間に見覚えのある人物の姿を認めて首を傾げた。すみれ色の瞳をうっすらと開く。
(あれは……クララ?)
 ライラックの木々の中をゆく美しい少女。
 茶色の髪を編み込んでアメジストのカチューシャで飾った、長身の姫君。……クララ姫だ。
 手には小さな籐の籠。背後に付き従うのは彼女の従者であるユーグだ。
 ……薄紫の花が、二人の薄い茶色の髪によく映えている。木々の緑も相まって、どことなくドラマティックな眺めだった。
 二人はきょろきょろと人目を気にしつつ、尖塔へ向かって歩いていく。
 まさか、あの塔に行くというのだろうか? だが、一体何をしに……?
 
「……」
 そこでバイオレッタは追及をやめることにした。
 初対面ではとても優しそうな姫君だと思ったが、彼女にもまた何か秘密があるのかもしれなかった。
(……深入りはよくないわね。きっと何か事情があるのでしょう)
 
 バイオレッタがそう自分に言い聞かせたとき、小径の向こうから声が聞こえた。
「あれー? バイオレッタ様にピヴォワンヌ様! 偶然ですね」
 アベルだ。彼もまたクララ姫のもとで働く従者である。
 下級魔導士であることを示す純白のコートと黒いクラヴァット。袖からは二段の漆黒のフリルがのぞく。
 華奢ではあるが背が高く、顔立ちはやや女性的で甘さがある。中性的な佳人と呼んで差し支えないだろう。
 彼はにこやかに片手を振ると、人懐こい笑みを浮かべて近寄ってきた。
「どうなさったんです? ここで何かなさっていらっしゃるんですか? ……ああ、ライラックの花をご覧になっていたのかな。今は盛りですから美しいですよね」
「あ、えっと。アベル様こそどうしてここに?」
 アベルはバイオレッタの右手を取ると、上目遣いに微笑みながら素早く口づけた。その感触に、バイオレッタの唇から「ひゃっ」と「きゃっ」の間のような、小さな声が漏れる。
 彼は満足げに微笑んだ。
「ああもう、うろたえる姿までお可愛らしいですね。そうやってこんな僕にまで敬称を忘れない貴女のことが、僕は好ましい。ですが、言いましたよね。僕はクララ様の従者ですよ。『様』はいりません」
(あ、そうだった……)
 バイオレッタは反省した。
 クララのことは同性ということもあって簡単に呼び捨てにできるのだが、男性を呼び捨てにしたことがこれまでにほとんどなくて、そうすべきだとわかっていても戸惑ってしまうのだ。つい「様」をつけてしまう。
 と、隣のピヴォワンヌがぐっと眉宇をひそめる。
「ちょっとあんた、なんなの、その馴れ馴れしさ。まさかバイオレッタを口説こうっていうの?」
「いやだなぁ。僕なりのスキンシップですよ。年頃の女の子は初々しくて特別愛らしいですから。ああ、ピヴォワンヌ様もキスをご所望でした? どこにしましょうか?」
「なっ!? どこに……って……! こ、この軽薄男! 近づかないで! 破廉恥よ!」
 ピヴォワンヌはばしっとアベルの腕を叩く。アベルはははっと軽やかに笑った。
 やり取りを眺めていたバイオレッタは頬を赤らめながらも安堵した。なるほど、スキンシップの一環だったのか。確かに挨拶のような気軽さだったが。
 と、そこまで考えてから、なぜだか急にクロードのことを思い出した。
(クロード様のキスはもっと……)
 彼の口づけは、もっと恭しい。
 壊れ物を扱うように優しく肌に触れるしぐさも、そっと押し当てられる唇も。
 臣下だからだと思ったが、その瞳は煽情的で、そしてどこか物欲しげだった。
「……」
 
 ……先日、バイオレッタはいきなり彼に唇を奪われた。
 奪うとはいっても、けして乱暴なものではなかった。不意を衝いて、彼の唇が自分のそれに押し付けられた。ただそれだけのことだ。
 本気のキス、というよりはもっと悪戯めいたもののような気がした。頬を挟み込む手は熱く、繊細なガラス細工でも扱うかのように慎重に顔を上向かされた。
 そこでふいに、軽く触れ合わせるだけのキスを施されたのである。
 クロードの唇は、バイオレッタのそれを柔くくすぐるとゆっくりと離れていった。
 唐突すぎる触れ合いに、バイオレッタは呆然とするよりほかなく、本当にあれは接吻だったのだろうかとしばらく疑ってしまったほどだ。
 その後、彼は何事もなかったかのようにあっさり帰っていったが、一人取り残されたバイオレッタの方は正気ではいられなかった。
 慌てて菫青アイオラ棟の寝室に駆け込み、ドレス姿のまま盛大にベッドに突っ伏す羽目になった。
 ……恥ずかしかったのだ。あのクロードとそんなことキスをしてしまったのかと思うとたまらなくて、つい敷布をぎゅうぎゅう握りしめてしまった。
 意識するとクロードの唇を詳細に思い出してしまい、バイオレッタは本当にどうしていいのかわからなかった。
 口づけられたときのことを思うと、縮みあがるような嬉しいような、不思議な心地になった。横になっても終始ふわふわとして落ち着かず、バイオレッタは何度か手鏡を取って口元を確かめた。
 指で唇を辿り、表情を観察し、挙句の果てにはクロードの前で粗相をしなかったかなどということまで考えた。
 心配したサラが声をかけてくれなかったら、ずっとあのまま寝台の上で奇行に走っていたに違いない。
 
 と、そこでバイオレッタは我に返った。
(い、いけない……、わたくしったらまたこんなおかしなことを考えてしまってる……!)
 両手でぴしゃりと頬を叩いて不埒な思いを打ち消すと、バイオレッタは自身に言い聞かせた。
(馬鹿! 経験がなさすぎるのよ、わたくしは。だからあんな顔つきに惑わされるんだわ。前にサラが言っていたじゃない、耳障りのいい言葉には気をつけてって。あれくらいクロード様にとってはきっと普通よ。駄目、これ以上考えたら……!)
「――バイオレッタ様」
 バイオレッタは思わず飛び上がりそうになった。
 ……この愛おしげな声音。この声は。
 背後から聞こえた声に、バイオレッタはゆっくりと振り返る。
 案の定、そこにはクロードが立っていた。風に黒髪を嬲らせたまま、穏やかな笑みを向けている。
「ああ、こちらにいらっしゃったのですね。菫青棟をお訪ねしてもお留守でしたので、あちこち探しまわってしまいましたよ」
「あ、ごめんなさい……! 探してくださっていたなんて全然知らなくて……!」
 クロードは「いいえ、私が好きでしたことですから」とかぶりを振った。
「……私の姫は今日もひどく麗しいお姿をしていらっしゃいますね。艶やかに咲き誇る花も、風に揺られる新緑も……。造園家がいかに庭園の美に心血を注ごうとも、貴女のそのお美しいお姿の前ではすべてかすんでしまう。単なる引き立て役にしかならなくなってしまう……」
 クロードはひたとこちらを見据えたまま、詩でも吟ずるような軽やかさでそんなことを言った。
 低い声に熱がこもっているような気がして、落ち着かなくなったバイオレッタは思わず視線をそらした。
「……そ、そんなこと、あるわけが――」
「いいえ……。この私でさえ、ひとたび貴女の前に出れば下僕も同然だ。貴女の目を見つめるだけで、一瞬にして無力になってしまう。抗う力さえ、根こそぎ奪い尽くされてしまう……。ですが……それでいいのです、姫。貴女はそのままでいい……。そのままで……」
「クロード様……」
 クロードはしなやかに歩み寄ってくると、バイオレッタの頬に静かに手を添えた。
 ただそれだけのことなのに、世界から音が消えたような気さえする。かろうじて聞こえるのは、騒がしい心臓の鼓動の音だけだ。
 ほっそりとしたおとがいをすくい上げて無理やり自分の方を向かせると、クロードはどこか楽しそうな笑みを浮かべた。揶揄するように言う。
「……それにしても、なんとも妬ましいですね。貴女はよりによってアベルと戯れていたのですか? お望みとあらば、この私がいつでも貴女の無聊を慰めて差し上げますのに……」
「な……! た、戯れるだなんて。ただおしゃべりしていただけですわ」
 おかしそうに笑ってから、クロードはバイオレッタの顎から手を放した。やはりからかわれたらしい。
(……そうよね。これだけ綺麗な方なのだもの、信奉者くらいいるでしょう。わたくしのことはきっと面白がって相手をしているだけなんだわ)
 バイオレッタはすぐに舞い上がってしまう自分を恥じた。
 ……馬鹿みたいだ。ただ親切にしてもらっているというだけで、ここまでクロードに入れ込むなんて。
 この前の口づけだって、悲しいけれどやっぱりただの悪戯にすぎないのかもしれない。バイオレッタがあまりにも無防備だったから、ちょっとからかってみたくなっただけなのかもしれない……。
 うつむいて眉を引き絞っていると、クロードはバイオレッタの肩にそっと触れてくる。
「困らせてしまいましたか? ですが……今のは私の本心なのですよ。私は貴女が悲しんでいらっしゃれば、助けずにはいられません。その苦痛も、迷いも……貴女のすべてをこの手に引き受けたい。たとえ貴女の退屈しのぎに利用されたとしてもよいのです。貴女の憂いが晴れるのなら本望ですよ。ですからどうか、他の男に目移りなどなさらないでください。……よろしいですね?」
「……!」
 強く交わる視線に、思わず息をのむ。一陣の風が吹き抜けてバイオレッタの髪を揺らした。
 ……駄目だ。この瞳の前で隠し事はできない。クロードのことは欺くことができそうにない。
(だって、初めて会った日から、ずっと。ずっと、わたくしは……)
 
「――ちょっと! 何見つめ合ってんのよ!」
 はっと現実に引き戻されて、バイオレッタは隣を見た。ピヴォワンヌがこちらを覗き込んで険しい顔だ。
 クロードはわずかに眉宇をひそめたが、バイオレッタをやんわりと抱き寄せると、ピヴォワンヌに見せつけるように背後からきつく抱きすくめた。
「やぁっ……!?」
 思わず悲鳴を上げて後ずさったが、かえって密着してしまう形になってうろたえる。クロードの胸板を背に感じて、鼓動がいよいよ騒がしくなった。
「おや、ピヴォワンヌ様。おいででしたか。お二人はとても仲がよろしいようで、大変微笑ましいことですね」
「あんた……クロード! あたしのことまるで目に入ってなかったみたいな口調ね!? そうやっていちいち食ってかかってこないでよ!」
「ああ……いけません、そのように怒鳴られては。貴女だって仮にも姫君なのでしょう? 大声を出すなどはしたないですよ」
「あんたがそうさせてるんでしょう!! 大体、何よその豹変っぷりは!! 今時あんたみたいな女々しくて裏表のある男、流行らないわよ!!」
「おやおや……」
 この二人は会えば喧嘩になるほど仲が悪い。ある意味遠慮がなくてよい関係なのだろうと、バイオレッタは時々うらやましくなってしまうほどだ。
 
 ……だが。
 そんな二人の声も耳に入らなくなるほど、バイオレッタは動揺していた。
 男性にこんなふうに抱きしめられたことなどない。幼馴染のトマスだって抱擁なんてしなかった。
 衣服越しに熱を感じて、バイオレッタは息を詰める。
 胸板は見かけによらずたくましくて厚いし、腰に回された腕だってしっかりしていて、女性のものとはかなり違う。
 クロードの腕に恐る恐る手を添えてみると、自分のそれとは全く性質が違っていることがわかった。衣類越しにもはっきりとわかるほど、肌が張り詰めていて硬い。バイオレッタのようにふにゃふにゃしたところなど微塵もない体だった。
 物腰柔らかな青年という印象が強いうえ、クロード自身にも男性らしさを誇示される機会というのはこれまでほとんどなかった。
 クロード本人には申し訳ないが、男らしさを感じる部分というのが今までさほど強調されておらず、寵臣、あるいは少し年の離れた兄のようなつもりで接することが多かったのだ。
 甘くとろりとした香りのオーデコロンに、レースとフリルをあしらったやや女性的で華美な宮廷服。
 そして優しげな顔立ちも相まって、男じみた印象は正直あまり強くはなかった。
 しかし、こうもはっきりと体格の違いを感じてしまっては、さすがに意識せざるを得ない。……彼は男性なのだと。
 
 バイオレッタはそこで、かっと頭に血が上ってくるのを感じた。
(わ、わたくし……、なんでこんなにどきどきして……!)
 こうしているだけで、異様なほど心が昂る。心臓が大げさなくらいどくどくと脈を打つ。
 この様子では、密着しているクロードにはすべて悟られてしまっているに違いない……。
 とにかく離れなければと、バイオレッタは彼を振り仰いだ。
「あ、あの! 放してください、クロード様……! お願いですから……!」
 消え入りそうな声でどうにか懇願したが、クロードは一向に解放する気配がない。それどころかバイオレッタの肩に顎を載せ、薔薇色の耳朶に唇を寄せて、彼は訊ねた。
「……姫。その前に、これからどちらに行かれるのかお聞きしても?」
 ……近い。近すぎて、振り向けない。
 仕方がないので、彼と目を合わせないようにひたすら前を向き、やっとの思いで答える。
「あ。あの、後宮書庫ですが……」
「ピヴォワンヌ様と行かれるのですか?」
「ええ。今日は五大国の勉強をしようと思って」
「では、私が教えて差し上げます……、後宮書庫で」
「えっ? クロード様が?」
 バイオレッタは思わず彼の顔を見上げた。甘い容貌がすぐそこにあって、頬が熱くなる。
 抱擁の力を緩めてバイオレッタを解放すると、クロードはふっと微笑んだ。
「実は今日はもう仕事が終わってしまったのですよ。魔道士館の部下たちの働きのおかげですね。普段なら夜になっても仕事が終わらないということもざらですが、今日は恵まれているようです」
「あー、そういえばクロード様、部下の使い方上手ですもんね。まあ、仮にあなたがサボると僕ら下級魔導士が全部片づけなきゃいけなくなるわけですけど、そんなこと滅多にありませんし」
 大樹にもたれて事の成り行きを傍観していたアベルが口を開いた。
 二人は魔道士館の上司と部下という間柄だ。きっとアベルは普段のクロードについても詳しいのだろう。
 だが、クロードは風で乱れた前髪をかきやると、心底鬱陶しそうにアベルを見る。黄金の双眸がきらりと光った。
「……」
 無言のクロードに、アベルは慌てて言った。
「あ、僕が口挟むのお嫌でした? って、すみません、怒んないでください、クロード様! 怖いですー!」
「アベル……。あなたには忠告しておきましょう。私の姫は初心うぶなのです。あなたのような男に言い寄られたら、お優しい姫のこと、きっとほだされてしまうでしょう。そうなれば私は容赦しません。覚えておきなさい」
「え、あのー……。露骨すぎません? 色々と。僕とピヴォワンヌ様の扱いがかなりひどいと思うんですが……」
「ですが見ていましたよ、私は……。あなたが姫の手にキスをしているところを」
 アベルは肩をすくめて、やれやれと息をついた。
「いいじゃないですか、どうせ僕は宦官ですよ。すでに男じゃないんです、キスの一つや二つ、罪には……」
「なりますよ。か弱い御婦人を自分の好きにしていいというのは男の不遜極まりない考え方です。それはキスであってもそれ以上の触れ合いであっても同じことです。それでなくともあなたの日頃の行いは目に余ります……。仮に魔道士館に御婦人方から苦情が来たとしても、私はあなたの擁護だけはいたしかねます」
「ええー……」
 ピヴォワンヌが冷ややかに口を挟む。
「……あんた、自分のこと棚に上げて何部下に当たってんのよ。あんただっていっつもこの子にべたべたしてるくせに。それも、この子の気持ちはおかまいなしに」
「おや。言いがかりですよ。私はいつも姫のことだけを考えています。ですが、そこまでおっしゃるなら姫ご本人にお聞きしてみましょうか」
「……え?」
 ぼんやりしていたバイオレッタは反応が遅れた。
「……姫。貴女は私に触れられるのがお嫌ですか?」
「え? あっ……、あの。何を、急に……」
「さあ……答えて、姫。貴女は私の口づけや抱擁がお嫌いですか?」
「ええっ……!?」
 うかがうような口調のわりに、表情は余裕たっぷりだ。前から思っていたが、クロードは思わせぶりな言葉遣いばかりする。
(嘘、そんなことをわたくしの口から言わせたいっていうの……!?)
 バイオレッタはすくみ上った。
 抱擁はともかく、口づけの話題は今は控えてほしいとさえ思っているのだ。
 なのに、今そんな単語を持ち出されては意識してしまう。ほのかに芽生え始めた想いを、やすやすと暴かれてしまう……。
 いつかのように本音を巧妙に引き出されそうになって、バイオレッタはしどろもどろになった。
 必死で声を上げる。
「あ、あの……、もう許してください……! そんなことはわたくしには、こ、答えられません……! はしたないですし……」
「……おや、これはこれは。貴女に触れる許しを請うているのは私の方だったはずですが。……ですが、貴女のその潤んだ瞳を見れば答えは明らかですね」
「え……。ええっ……!?」
 バイオレッタは思わず両手を頬にあてがった。
「ちょっと! 調子に乗らないでよ! なんなのよその自信は!」
 ピヴォワンヌがクロードの胸倉を掴んだが、彼は喉の奥でさもおかしそうに笑っている。
「……冗談が過ぎました。ふふ、まあ今日はこのくらいにしておきましょうか。では、お二方を書庫へお連れいたしましょう」
「あんたと勉強会なんか、死んでも嫌よ」
 そう切り捨てるピヴォワンヌの手を胸から引きはがすと、クロードはバイオレッタの顎をとらえる。
「そうおっしゃらず。付きっきりで教えて差し上げますよ。……ねえ? 姫」
 妖しくささやくクロードに、バイオレッタは赤面しつつも言った。
「き、今日のクロード様は意地悪だから嫌いですわ……。もうプランタン宮にお戻りになってください」
 色々な意味で心臓に悪いので、いい加減解放してほしい。
 そう思い、すげなくはねつけたつもりのバイオレッタだったが。
「これは手厳しい。では……」
 バイオレッタの手を強引に取り、クロードは森の小径を歩き出した。
「あ……、ちょ、ちょっと、クロード様!?」
「たまにはよろしいでしょう、私に付き合ってくださっても。姫のお相手をさせて頂きたくとも時間が取れず、歯がゆい思いをした日もあるのです。今日くらいは、この哀れな男に同情してくださってもいいのではありませんか?」
「だ、だめですわ……、女官長が黙っていませんし……、ピヴォワンヌだって……!」
「貴女は人の顔色ばかり気になさるのですね。私の目にはもうずっと、貴女しか見えていないというのに……」
 どこか切なげな顔が胸に突き刺さる。
 ……このままでは、流される。そう思うのに、手を振りほどくことができない。
(わたくし……)
 かんかんになったピヴォワンヌが追いかけてきてクロードを怒鳴りつけたが、結局バイオレッタは書庫に着くまで彼の手を放せなかった。
 
 

 

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