「……まあ。驚いたわ」
バイオレッタはハンカチーフを持つ手をそっと下ろした。
「アスター殿下のお話はうかがっていたけれど、まさかそんな事情があったなんて」
「申し訳ございません……!」
「えっ……、嫌だわ、どうして謝るの?」
クララはふるふるとかぶりを振った。
「わたくしは……、わたくしは本当に至らない姫です……! 『従属の証』となった身で、愚かにもこのような真似をしてしまいました……! わたくしにはもう、世の御婦人方のように生きることは不可能。一生このスフェーンの捕虜として生きてゆくしかないというのに……!」
自分にはもう、恋などする資格はない。
しかもスフェーンの王子であるアスターまでをも巻き込んでしまったのが辛い。
クララの言葉はそういった雰囲気を帯びていた。
「ちょっと待って。わたくしは、恋というものはそもそも一人でするものではないと思っているわ。ただそうした想いを味わいたいだけなら、巷の戯曲や小説を愉しむだけでじゅうぶんでしょう。だから、その……何も貴女ばかりが責任を感じることはないのではない? わたくしの認識が間違ってさえいなければ、恋愛って二人のお話でしょう」
そこでクララは手の甲でぐいと涙をぬぐった。
「……確かに、そうかもしれませんわね。ですが、わたくしは歯がゆいのです。わたくしは、捕虜でありながらもあの方より遥かに恵まれた状況にあります。それがどうしても辛いのです」
「恵まれている? どういうこと?」
「あの方はただ片目が紅いというだけで、これまで理不尽な生き方を強いられてきたのです。つまり、軟禁され、自由を奪われ、玉座にのぼる権利をはく奪されるという生き方を。それに引き換え、このわたくしはどうでしょうか。あの方のように行動を制限されるということもなく、高価な絹と宝玉で着飾って、日々のうのうと生きています。……これまであの方に何度も救われてきたにもかかわらず」
「……」
のうのうと生きるのは悪いことではないと思う。日々を平和に過ごせるというのはそれだけでじゅうぶん価値のあることだ。
だが、クララはそれでは満足しないのだろう。彼女は、できることなら想い人であるアスターと同じ目線でものを見たいと思っているのだ。
同じものを分かち合う恋人同士として、彼ばかり不遇な状況に置いておくのは不公平だと感じるのかもしれない。
クララの愛とは、相手に自らの一部を与える愛なのだろう。そして、王子アスターの持つ愛というのもまたそうした類のものなのではないかと、バイオレッタは思った。
いつも控えめな彼女が、こうも必死に恋人の役に立ちたいと主張している。それだけでなんだかとても胸打たれてしまった。
「アスター殿下はなんておっしゃっているの?」
「……わたくしを、解放したいと。できることなら、もっと自由に生きてほしいと。……ですが、わたくしは……!」
クララは肩を震わせて再びしゃくり上げる。
バイオレッタはそこで、クララにこの辛い話を一旦切り上げさせようと考えた。
努めて明るく話題を変える。
「お優しい方なのね、アスター様は。貴女の言葉の端々からそういう気性のよさが伝わってくるわ」
「ええ……。とてもお優しいですわ」
うーん、と考え込んだ後、バイオレッタは小首を傾げながらクララに訊ねた。
「ねえ、二人はどこで知り合ったの? その……軟禁されていると言ったでしょう」
単純に不思議だった。行動を制限されているという彼と、一体どのようにして出会ったのか。
が、事もなげにクララは言った。
「わたくしたちは幼少期からの友人同士です。捕虜としてこの宮廷で暮らすうち、ユーグや周囲からそれとなく教えてもらったのですわ……、アスター様とわたくしとの間で過去に交わされていたという、ある約束の話を」
バイオレッタは彼女から思いがけずドラマティックな逸話を聞かされることになる。
スフェーンとアルマンディンの間で定められたとある「約束」、そしてクララとアスターの出会いについて。
クララはもともと、先に誕生していたスフェーン王子アスターの花嫁となる宿命だったのだという。
「わたくしとアスター様は、もともと国同士が約束した許婚のような間柄だったのだそうです。先に生まれたのはアスター様、わたくしはその五年後に生まれました。ですが、アスター様が生まれた時点で、二国の王たちの間でとある約束事が取り交わされていたのです」
……アルマンディンで男が生まれたら、スフェーン王子アスターの唯一無二の友に。女であれば彼の花嫁にする。
そんな約束だったのだそうだ。
「それは……、兄王子様ならアスター様のご友人になっていたかもしれないということね」
「ええ。ですが、それはつまるところ、互いの子供を利用して両国の結びつきをより強固なものにしようとしただけのこと。自分の子供が男であれ女であれ、お父様は喜んでアスター様にあてがったことでしょう」
なるほど、とバイオレッタは納得する。
それなら男女のどちらに転んでも損はしない。
たとえアスターが王になれなかったとしても、アルマンディンの新王とは良好な関係が維持されるし、かの国の姫を娶ることで国交も保たれる。
つまり、互いの国を支え合うための取り決めだったというわけだ。
「もちろん本人たちは知る由もないことでした。それは政略結婚の一環で、そもそもが国同士の取り決めでしかないのですもの。当の本人たちにはそんな目論みなど理解できるはずがありません。ですが、戦争で両国の関係も険悪なものとなってしまい、結果としてなかったことにされてしまいました」
クララが生まれた年というのは、両国の関係がとりわけ劇的に変化した時期だったのだそうだ。
仲の良好だった国同士が反発し合うまでにはさほどの時間はかからないのだとクララは言う。
「お父様がスフェーン側と懸命に交渉して結んだ不可侵条約に、互いの王子王女を婚姻させるという約束。すべてが水泡に帰すまで、なんと三年もかからなかったそうです。戦というのはそれほどまでに目まぐるしく状況を変えてしまうものなのですね」
しみじみと言い、クララは膝の上で両手を握りしめる。
「初めてこちらの宮廷でアスター様にお会いした時、わたくしたちはまだ子供でした。五つ年上の、まるで兄のような王子様。そんな認識でしたわ。今にして思えば、そうした殿方を無意識に求めていたのかもしれません。ユーグから兄の話を聞かされたばかりでしたから……」
「兄妹みたいに育ったということね」
クララはそこでくしゃりと相好を崩した。
「ええ。今にして思えば許婚や友人というよりも兄妹といった方がしっくりくる関係だったような気がしています。おかしいお話ですけれど。子供でしたので、色恋のことなど一切考えませんでしたわ」
……バイオレッタの脳裏に、無邪気にはしゃぐ幼少期の二人の姿が浮かび上がった。
金の髪の少年と、まだ稚い少女のクララ。
二人で一体どんな遊びをしたのだろう。
もしかすると、クララも今ほどきりりとした姫君ではなかったかもしれない。王子アスターに助けられてばかりのおてんばな娘だったかもしれない。
バイオレッタは瞳を細める。
「とてもいい間柄みたいで、なんだか和んでしまうわ。そういう関係も素敵よね。その……、最初から異性として意識し合うんじゃなくて、ごく自然な形で始められるというところが」
二人の間にはなんのてらいもないように思える。
互いに執着し合うような湿っぽさもなければ、相手をなんとか篭絡させようなどという目論みもない。
親密な間柄ながらさっぱりしている。きっとそんな関係なのだろう。
「エリザベス様もそうおっしゃいましたわ。あなたたちの仲はとても自然で、見ていてほっとすると……」
「お母様が?」
「ええ。あの方は時々、わたくし二人たちを誘って遊んでくださいましたの。カードゲームを教わったり、一足先にチェスを覚えたり……。おかげでアスター様は今ではすっかりチェスの名手ですのよ」
「えっ……」
バイオレッタは呆気にとられた。
母妃エリザベスの過去の行動には舌を巻くばかりだ。
女だてらに国政を操り、王を支え、しかも宿敵であるシュザンヌの息子の面倒まで見てしまうとは……。
「すごいわ。まさかお母様がアスター様とそんなに仲が良かったなんて」
クララは苦い笑みを浮かべる。
「王妃様は当時からあまりアスター様のことを構わない御方でしたから、エリザベス様も気の毒に思われたのだと思います。エリザベス様は子供が大好きな女性だったのです」
「わたくしがいなくなったことも関係していたのかしら」
「多少は影響していたのでしょうね。やはりお寂しかったのだと思いますわ。それでわたくしもアスター様も一生懸命あの方のお話相手になって差し上げていましたの」
バイオレッタはクララを見つめて、すみれ色の瞳を細める。
「……ありがとう、クララ」
「え……」
「貴女やアスター様がいてくれたから、お母様はきっと平気だったのだと思うわ。子供を喪ってたった一人で生きていくのは辛いもの。貴女がそばにいてくれたこと、お母様はきっと感謝しているに違いないわ」
「そんな……」
クララはぶんぶん首を横に振るが、バイオレッタはその手を取って「いいえ」と言った。
「よかったのよ、貴女とアスター様がいてくれて。お母様だって人間だから、悲しい思いを抱えたまま生きていくのは嫌だっただろうと思うの」
悲しみに打ちひしがれているリシャールを励ましながら暮らすのは辛かっただろうと思う。娘が失踪したことで自分を強く責めたことすらあったはずだ。その思いはバイオレッタにさえ計り知れない。
彼女だってただの一人の人間でしかないのだ、気丈にふるまうのにだって限界はあっただろう。宮廷で生き抜くことに不安を覚え、何もかも投げ出してしまいたくなる時期もあったかもしれない。
(だけどきっと、クララやアスター様の存在に救われていたんだわ……)
彼らは子供らしい無邪気さで傷心のエリザベスを癒したのだ。彼女の子供代わりになって、消えかけた温かさをもう一度与えてくれた。クララはいわば、エリザベスにとってのもう一人の娘なのだ。
「お母様、嬉しかったでしょうね。貴女を一時でも可愛がることができて、支えてもらえて」
クララはうっすらと頬を染める。泣きぬれて蒼白だったおもてに血の気が差し、潤んだ瞳と相まって何とも言えず綺麗だ。
「わたくしの方こそ、エリザベス様とバイオレッタ様には感謝しかないのですわ。エリザベス様のおかげでわたくしたち母娘は処刑を免れたようなものなのですから……」
「そうだったわね。確か、わたくしのお母様が命乞いをされたから、クララとクララのお母様は生き延びることができたのだと聞いているわ」
「ええ……。エリザベス様はわたくしの母とは旧知の仲だったのだとうかがっています。神聖王国オルレーアの姫君だった時分から、頻繁にアルマンディンを訪問していらっしゃったのだそうですわ。だからこそ助けになっていただくことができたのだと思います」
「神聖王国、オルレーア……?」
クララは取り出したハンカチーフで目元を拭きつつうなずいた。
「ええ。エピドートの東にある島国です。不思議な伝統と文化が根付く国で、古代より魔導士や神官を多く大陸に送り出した土地だといいます。今では亡国となって久しいですけれど」
母妃の出生地について聞かされたことがあまりなかったバイオレッタは、単純に興味深く耳を傾けた。
正妃シュザンヌが幅を利かせているせいか、エリザベスや清紗にまつわる事柄は誰に訊ねても詳細には教えてくれないのだ。
(お母様が側妃だったせいもあるのでしょうけど……)
バイオレッタは、やはりクララは頼もしい姫君だと感じた。
彼女ににこりと笑いかけ、言う。
「貴女からこうして色々教えてもらえると、本当にありがたいわ。そういった大事なことについて、わたくしはまだほとんど何も知らないのですもの」
「そのような……」
「いいえ。よかったらこれからもわたくしを助けてね、クララ」
クララは面映ゆそうに微笑んだ。
生ぬるい夜風が頬を撫でる。
池のほとりに植えられた柳の枝が、さわさわと心地よい音を立てて揺れた。
「実は今日、従者に聞いてしまったのです。バイオレッタ様とピヴォワンヌ様が、アスター様のいらっしゃる尖塔の存在に気づいたようだと」
「……やっぱりあれは貴女だったのね」
では、プリュンヌが軟禁されているのもきっと似たような建物なのだろう。例の塔にフェマール石の煉瓦が使われているのはなんとなく知っていた。だが、まさか本当に忌み子を閉じ込めるための塔だったとは……。
クララは「はい」とうなずく。
「それでわたくし……、お二人がどなたかに言いふらしてしまわれるんじゃないかって、不安になってしまったのです。悪いのはわたくしなのに、おかしいですわよね」
「ちっとも悪くなんてないのに、どうしてそんなことを言うの? 貴女の感情は、誰かに隠さなければいけないような後ろめたいものではないじゃない。そうやって愛すべき相手に巡り合って大切にできるというのは、本当はものすごく素晴らしいことではないかしら」
「バイオレッタ様……」
クララはびっくりした風にこちらを見る。
バイオレッタは励ますように言った。
「貴女は苦境にあってもそうした素晴らしいものをちゃんと見つけることのできる女の子なのよ。自分にとって大事だと思えるものをちゃんと探り当てて、宝物のように慈しむことができるの。それは貴女の心が健やかなしるしよ。変に卑屈にならないで、日々を丁寧に過ごしてきたからこそ今の貴女があるの。もっと今の自分を認めて、大切にしてあげて」
アスターを大事に思うのもいいが、クララは自分というものを軽視しすぎている。
おかしな道に迷い込んでしまったと自分を責め、その想いを肯定できずにいる。
それはもったいないことだとバイオレッタは思う。
確かにアスターも人としてもっと尊重されるべきだとは思うが、だからといってクララが自分自身を貶めていいことにはならない。
ここまでひねくれずに生きてこられたからこそ、彼女はアスターという信頼すべき相手を見つけることができたのだ。
捕虜であるということに気を取られ、必要以上に卑屈になっていたら、恐らく今の二人はなかった。
そうなっていたら、きっと彼女はアスターを信じることができなかっただろう。
スフェーンの王子だというだけで一方的に敵視しただろうし、愛情を抱くどころか「親の仇」と悪罵していたに違いない。
だが、彼女は道を違えなかった。捕虜だからといって後ろを向いたりせず、まっすぐに生きてきた。
だからこそ今があるのだ。
「二国の関係は確かに破綻したわ。だけど、諦めるのなんていつでもできる。今の貴女に必要なのは、悲観することじゃない。心を強く持つことよ」
二人にとっての第三者であるという事実は、バイオレッタをより冷静にした。
大した人生観を持っているわけではないが、それでも何とか力になってやりたくて、バイオレッタは必死に言葉を紡ぐ。
「もちろん、わたくしの言葉は万能じゃないから、必ずいい方向に進むなんて言いきれないわ。だけど、未来を信じて何が悪いの? 貴女にもアスター様にも、幸せになる権利はあるのよ。確かに二人とも苦境に立たされているかもしれない。だけど、人の一生というのは何もそんなことばかりではないとわたくしは思うの。今の貴女たちはちょっとした波に揉まれているだけ。いつか絶対に上向く時がやってくるわ。……だから、諦めないで」
バイオレッタはクララの手を握りしめながら言い切った。ふう、と息をつく。
(なんだか偉そうなことを言ってしまったけれど……。わたくしの楽観的な考え方では、クララは納得してくれないかもしれないわね……)
バイオレッタは生来大らかでのんびりしたところがあるが、クララは違う。
理知的な彼女は知識や情報といったものを基に行動するのをよしとする性格だ。なんの根拠もないバイオレッタの言葉など、もしかしたら端から受け入れてはくれないかもしれない……。
けれど――。
「……ええ。ありがとうございます、バイオレッタ様」
眦にうっすらとしずくを浮かべ、クララは困ったように笑う。
「どうしましょう……、わたくし、なんだかとても……嬉しくて。本当は、ずっと誰かにそう言ってほしかったのです。何も恐れることはないと。このまま信じて進んでもいいのだと」
バイオレッタはぱあっと笑顔になった。
「ええ……、ええ。クララ、貴女はそのままでいいのよ。何も怖がらなくていいの」
「はい……!」
「でも、まさか王子様が後宮で生活なさっていらっしゃるなんてびっくりしてしまうわ。忌み子だということは知っていたけれど、こんなに近くにいらっしゃるとは思わなかったの。離宮やお邸を与えられて、そこで生活しているのだとばかり……」
バイオレッタがつぶやくように言うと、クララはわずかに顔を曇らせる。
「……あの方は成人した王族男性としての住まいは与えられていらっしゃいませんの。忌み子の王子は成人しても世継ぎにはなれないさだめ……。異教徒の戯言や甘言に耳を貸して国を混乱させるのを防ぐ目的があるのです。ですので、国王陛下も迂闊に城の外へは出せないのですわ」
「でも、ここは後宮でしょう? 王子様の住まいには適さないのではない?」
「アスター様は王子として遇されてはおりませんから」
力なく言い切り、遠い目をしながらクララは続ける。
「成長した世継ぎの王子は、後宮を出て『青き宮殿』という居城を与えられるのが常。ですが、あの方はもうずっと後宮の尖塔に軟禁されているのです。まごうことなき陛下とシュザンヌ様の御子であらせられるのに……」
アスターは恐らく、自分が王子であるということをむやみに主張しようとはしないのだろう。
父王や廷臣の言いなりになっている方が波風が立たないと思っているのか、あるいは本当に反抗心がないのか。彼の本心はバイオレッタにはわからない。
だが、だからこそ気になってしまう。クララをここまで取り乱させ、我を忘れさせる王子の本質が。
「今度、わたくしもお会いしてみたいわ」
「えっ?」
「だって、お父様の血を引く王子様なら、わたくしにとっては異母兄に当たるわけでしょう。まだお話をしたことがないのだけれど、それはなんだかおかしいのではないかとずっと思っていて」
いつかの披露目の宴に出席していたのは覚えている。だが、面と向かって言葉を交わしたわけではないので、ずっと気になっていたのだ。
クララはにこりとした。
「……まあ。実は、あの方もバイオレッタ様のことを気にかけておいででしたのよ」
「そうなの? よかった。嫌われていないみたいで」
「嫌うなどと。口下手なところはおありですが、基本的には人間嫌いというわけではないですし」
それに勇気を得たバイオレッタは、身を乗り出して彼女に頼み込んだ。
「……じゃあ、今度会わせて。貴女が嫌じゃなかったら」
「それ、は……。別にかまいませんけれど……」
どこか思案する様子のクララに、誤解させないように弁明する。
「あ、もちろん他意はないから安心してね……! 貴女からアスター様を横取りする気なんか全然ないし、むしろ応援したいと思ってさえいるのだから……!」
「応援」という一言に、クララは息をのむ。
バイオレッタの手を握りしめ、彼女は花がほころぶように笑った。
「ええ……!」