……その日の夕方。
後宮書庫の入口で、バイオレッタたちはクロードと別れようとしていた。
「ありがとうございました、クロード様」
「いいえ。姫は飲み込みが速くていらっしゃる。お教えするのが全く苦になりません。むしろとても楽しかったですよ」
クロードの言葉に、バイオレッタははにかんだ。
「そうですか? 御迷惑でなかったならいいのですけれど……」
「そのような……」
ピヴォワンヌがやれやれと肩をすくめる。
「魔導士、あんた意外と勉強熱心なのね。ちょっと見直したかも。寵臣って呼ばれるのにはやっぱりわけがあるのね」
「今さらお気づきに? そうですよ、私は勉強熱心なのです。一度興味を持った事柄に関しては、特に……」
ささやくように言い、クロードは余裕たっぷりにバイオレッタを見つめる。夕陽に照らされ、長い漆黒のまつげが頬に濃い影を落としていた。
「べ、勉強熱心、ですか……。はぁ……」
バイオレッタはさすがにいたたまれなくなって視線をそらした。
台詞といい視線といい、あまりに含みがありすぎて意味を考えるのはためらわれる。
が、いきなり手袋越しに手を握られて、バイオレッタは思わずクロードを見上げた。
「あ、あの……」
「貴女が私の熱意に応えて下さるなら、手取り足取りなんでもお教えいたしますよ、姫。そうですね……、ああ……、貴女が誇り高き淑女となれるように、まずは宮廷での恋愛遊戯についてご教授いたしましょうか。つきましては、二人きりになれて決して邪魔の入らない場所で教えて差し上げたいと思うのですが」
「え、そ、そんな……!! な、何を……!!」
「もう!! やめなさいよ!! そういういやらしい発言は!!」
べりっという音がしそうな勢いで二人を引き離し、ピヴォワンヌがクロードをにらみつける。
「あんたが手取り足取りとか冗談じゃないわよ。貞操の危機以外の何物でもないじゃない」
「貞操の危機、などと……。は……、私にはそのような野蛮な真似はできません。可憐な姫君を辱めるなど、男として最低の部類に入るでしょう」
「あんたはまさに最低ランクだと思うけどね。すぐバイオレッタに迫るし、嫌がること平気でするし。っていうか、これが最低じゃなかったらなんなのよ。まさかあんた、自分がいい男だとでも思ってるわけ? その勘違いっぷり、笑えるわね」
「これだから野育ちのじゃじゃ馬姫は扱いに困るのです。私のどこをどうご覧になってそうおっしゃられているのか理解に苦しみますね。私はいつでも姫の御心を最優先させて頂いています。正直、私ほどひたむきな男はいくらスフェーン宮廷広しといえども他に見つからないはずだと自負しているのですが……」
「ちょっと!! 聞き捨てならないんだけど!? あんた今さらっと『野育ちのじゃじゃ馬』って言ったわね!?」
どんどん一触即発なムードになってきている、と、バイオレッタは慌てて二人を止めに入った。
「ふ、二人とも、もうそれくらいにして下さい……! せっかくいい一日だったのに、こんなところで喧嘩なんていけませんわ……!」
二人は揃ってバイオレッタを見た。
「バイオレッタ……」
「ああ、姫……。貴女は本当にお優しい。どこぞの姫君とは心根がだいぶ異なっていらっしゃるようです」
「なんですって!?」
「ピヴォワンヌ、もういいでしょう? 貴女の気持ちはよくわかったから、これ以上は抑えて」
「……あーもう……、わかったわよ!」
くしゃくしゃと芍薬色の髪をかきやって、ピヴォワンヌはむっつりと黙り込んだ。
「クロード様も、あんまりこの子をいじめないであげて下さい。わたくしはありのままのピヴォワンヌが大事なのですから」
「……お許しを、姫」
クロードは心底反省しているといった表情で、バイオレッタの手を取ってキスをした。
「そういえば……。そうやって眼鏡をかけていらっしゃると、本当に先生みたいですわね」
くすくすとバイオレッタは笑った。勉強会の間中、クロードはいつも携帯しているという眼鏡をかけていたのだ。
クロードはそっと眼鏡を外して微笑んだ。
「こちらは陛下からの下賜品なのです。本来であれば大陸ではまだ高価なのですが……目が悪くなると困るだろうとおっしゃられて」
「目がお悪いのですか?」
「いえ、どちらかといえばよいほうでしょう。この年齢(とし)でこれだけ視えるのですから」
「確か……最後の年には二十三歳でいらしたのですよね?」
バイオレッタが問いかけると、クロードは微苦笑した。
「ええ。ですが、実際はもう少しばかり上ですよ。陛下同様、外見年齢が変化しない身体になっているとはいえ、貴女よりも遥かに年上です」
「……ですが、わたくしは二十三というお年のつもりで接したいと思います。だって、見た目がそうなのですから」
クロードは切れ長の目元をわずかに細める。
「姫は、私が気持ち悪くはないのですか。私はいわば生の理を外れた魔物のようなものだ。宮廷人たちが蔑むのも何らおかしなことではないというのに」
「……怖くなんて、ありません」
言葉少なに言い、バイオレッタはもじもじとクロードを見上げた。
……恐ろしくなどない。
バイオレッタにしてみれば、そんな彼の逸話さえ神秘的で素敵に思える。
白馬の王子様などというものが本当に存在するのなら、それはクロードのことかもしれない。
そんな妄想に耽ってしまうほど、バイオレッタは彼の魅力に呑まれかけていた。
(まるで、わたくしだけの王子様みたい……)
漆黒の上着をしゃんと着込み、いつも涼しげな表情で立ち回っているクロード。
頼りがいがあって、だけれども謙虚で、時折悪戯な言動で惑わしてくるのがまた蠱惑的で。
バイオレッタ目指して悠々と歩み寄ってくる姿は、まるで生粋の貴公子だ。元の出自など一向に気にならなくなるくらい、彼の所作は洗練されていて上品だった。
白くなめらかな指先がするすると動くたび、漆黒のまつげが艶めかしく伏せられるたびに、バイオレッタは感嘆の吐息を漏らしてしまう。……こんなに美しい殿方が自分を好いてくれているなんて、と。
(……ああ、なんて素敵なの)
生来夢見がちで空想家なところのあるバイオレッタは、ほうっと息をついて彼を見つめた。
そのうっとりと潤んだ目つきに、クロードがすぐさま気づく。
「……! ああ、姫……」
彼女の甘やかな視線と雰囲気を読み取り、クロードもまたすっと身を乗り出す。
バイオレッタ同様、彼もまたこうしたムードにはめっぽう弱かった。無言で熱っぽく視線を注がれると、ついその気になって応じてしまうようなところがあるのだ。
「……」
挑むように、そして誘いかけるように。
二人はしばし、濃厚かつ貪欲な見つめ合いを繰り広げ続けた。
居心地の悪くなったピヴォワンヌが、げっと顔をしかめる。
「あーもう、また見つめ合ってるし……。あたしのいる意味が全っ然ないじゃない、もう……!」
彼女ははあ、と息をつくと、バイオレッタの視線の先に手をかざした。視線を遮るように、上下に何度か軽く振る。
「バイオレッタったら、こいつにメロメロなのもいいけど、あたしを忘れないでよね!!」
「……!」
ピヴォワンヌの揶揄に我に返り、バイオレッタはしゃんと背筋を伸ばす。
咳払いをすると、顔を上げて言った。
「……あの、クロード様?」
「はい」
「今日はありがとうございました。またお時間のできたときに、お勉強、教えてほしいです」
「ええ。それが貴女のお願いなら、いつでもお教えいたします」
クロードはそう言って品のよい会釈をする。
そして柔和なまなざしでバイオレッタたちを見送ってくれた。
***
「ふう……」
なんだかんだで色々あった一日だったが、とてもいい日になった……。
そう思って、バイオレッタは満足のため息をつく。
まだ赤い頬をぴしゃりと叩き、わずかに残っていた恋の熱を散らす。
(サラや侍女たちに、こんな腑抜けた顔を見せるわけにはいかないもの)
筆頭侍女のサラは、クロードのことがあまり好きではない。
理由をそれとなく訊ねると、「盛装させたバイオレッタを横からかすめ取るから嫌だ」「なりふり構わずバイオレッタをかき口説いてみっともない」「自分だってバイオレッタと出かけたり戯れたりしたいのに」……ということらしいが、バイオレッタにはよく理解できなかった。
彼女には彼女なりの複雑な理由があるようだ。
「本当によくわからないわよね……。どういう意味なのかしら」
正面階段を上りきり、ようやく菫青棟の中に入ろうというとき。
「……あ、バイオレッタ様」
「……? クララ……?」
菫青棟の入口にたたずんでいるクララを見つけ、バイオレッタはきょとんとした。
彼女はなぜかきまり悪そうに視線をさまよわせる。
クララの居住棟はここからだいぶ離れている。名を青玉棟といって、ピヴォワンヌの居住棟のそのまた向こうだ。
どうしてこんなところにいるのだろう。それもこんな、夕食の時分に。
なんだか妙な感じがして、バイオレッタは思わず彼女に近寄った。
「クララ……どうしたの? こんな時間にわたくしのところに来るなんて」
「いえ……。あの、今お時間ございますか?」
バイオレッタはきょとんとする。
確か書庫を出たときは六時過ぎだったから、もうそろそろ夕食の時間だ。菫青棟の中でもゆるゆると食事の支度が始められているに違いない。
彼女の様子を見るにつけ、バイオレッタに何か用事があるようだ。
だが、こんな夕食時にわざわざやってくるなんて……。
「時間なら作るけれど……、あの、貴女、お夕食は……? もうそろそろ食事を摂る時間よ、こんなところにいてもいいの?」
「……アンナには断ってきましたわ。ですので、その……」
クララはうかがうようにこちらを見ている。そこでバイオレッタは、クララは自分に何か訴えかけたいことがあるのだとやっと気づいた。
「わたくしに何かお話があるのね」
「はい……」
蒼褪めた顔でそう答えたきり、クララはうつむく。
バイオレッタはその手をすくい上げて、きゅっと握りしめた。
「じゃあ、行きましょう。どこで話したい?」
「……では、蓮花園のほとりの四阿で」
「わかったわ」
うなずき、バイオレッタはクララと歩幅を合わせて歩き出した。
***
二人は黄昏時の蓮花園に足を踏み入れた。薔薇後宮の東側にある庭園で、蓮の花だけを集めて育てている場所だ。
深緑の水面には無数の睡蓮が浮かんでいる。もう閉じかけたものもちらほら見受けられるが、いくつかはまだ開花していた。
睡蓮は国王リシャールがその物珍しさから好んでいる花だ。この蓮花園も強い彼の希望で造園された。
スフェーンでも宮廷画家や粋人たちがこぞって愛好してきた花だが、バイオレッタはまだ一度も見たことがなかった。
思わず池のそばへと駆け寄る。
「わあっ……、あれが睡蓮……! 透けるようなピンク色の花弁で素敵……、あっ、魚がいる……! 可愛い……!」
バイオレッタはそんなことを言って池の中を覗き込んだが、クララはどう話を切り出してよいのかわからないといった風にうつむいている。
(あら……)
なんとも反応が悪い。一体どうしたというのだろうか……。
宴の席や四人で開くお定まりのお茶会など、クララとはもう数えきれないくらい会っているが、腹を割って話したことはなかった。
彼女自身大人びた少女だし、姫としてもこの上なくしっかりと守りを固めているから、どう親しくなればよいのかバイオレッタにはよくわからないのだ。
それは恐らく敗戦国の姫君であるということも関係しているのだろうと思われた。
アルマンディン出身の姫が過剰に目立つような真似をすれば、王妃も王太后もいい顔をしないはずだ。
何せ王太后には晩餐の席で「知恵ばかりつけて可愛げがない」とまで評されていたのだ。萎縮してしまうのも無理はないだろう。
そんなクララの鎧を取り外そうと、バイオレッタは彼女を庭園の片隅にあるガーデンチェアに導いた。
弱り切った様子の彼女を座らせ、努めて気さくに言う。
「わたくし、ちょっとだけおかしな話をするけれど……笑わないでね」
「え? ええ……」
バイオレッタはクララと並んで座り、ぽつぽつと話し出す。
「わたくし、十七にもなるというのに夜が怖いの。夜って嫌よね。真っ暗で、静かで……。部屋の灯りを消すと、なんだか急に独りぼっちになったような気がして。本当は寝る時も燭台の灯りを消したくないくらい……」
無言でこちらを見つめてくるクララに、バイオレッタは白銀の髪を撫でつけながら続ける。
「それにね、たまに悲しい夢を見たりもするの。だから……夜はちょっとだけ苦手」
例の夢は未だによく見ている。
だが、以前と決定的に異なっているのは、夢の中の男性の感情がよりはっきり伝わってくるようになったということだ。
彼女を喪いたくない。ずっとそばにいてほしかった。どうして彼女を守れなかったのだろう。
そんな思いが次々に押し寄せてきて、一生懸命に「何か」を形作ろうとする。バイオレッタをより強く呑み込もうとする。
しかし、不思議と恐怖は感じない。男の悲憤を、バイオレッタはただ受容する。彼の慟哭を、後悔を……そして少しばかりの怨恨を、黙ってその身に迎え入れる。
……けして触れられない、彼の背中。だがそれでもバイオレッタは、彼の痛みに同化しようとする。
そんな奇妙な夜を重ねたせいか、彼女はいつしか夢の青年に恐ろしさを感じなくなっていた。
胸に広がるかすかな郷愁とともに、バイオレッタはその一風変わった逢瀬を待ちわびるようにさえなっていたのだ。
今でこそ期待の方が勝るものの、あの夢に対しての潜在的な恐怖のようなものは依然としてある。
何か開けてはいけない扉を開けてしまっているような気がしてしまう。
(あれこそはパンドラの箱……、いいえ、禁忌の扉なのかもしれないわ)
絶望の雨は今でも青年の身を容赦なく打ち据えているに違いなかった。
そこから彼を連れ出してやれないのが何故だか辛い。どうしようもないほどに。
バイオレッタが唇を噛みしめると、傍らのクララがそこでゆっくりと唇を開いた。
「……夢でしたらわたくしもよく見ますわ」
「どんな夢……?」
バイオレッタがおずおずと訊くと、クララは切なそうに瞳を伏せた。
「……小さな男の子が、背中に焼き印を押し当てられているんです。とても生々しい夢ですわ。肉が引き攣れるところも、焦げるような匂いも。その子の悲鳴さえ……。こちらにまですべてが伝わってくるような、惨たらしい夢です。白い背に、くっきりと紅い火傷の痕が残って……」
クララは睡蓮を見つめて苦い笑みを浮かべた。
「わたくしには、兄がいたそうなのです」
どこか遠い目をして、つぶやくように彼女は言う。
「昔、わたくしの部屋に飾られている宝剣についてユーグに訊ねた折、彼から教えてもらったのですわ。年の四つ離れた兄王子の話を……」
宮廷魔導士をしていたところをアルマンディン王に見初められ、国王の正妃となったレオノーラ。
ユーグによれば、兄王子は彼女譲りの魔術の才を持ち合わせており、赤子の頃から四大神(よんだいしん)のしもべと触れ合っていたのだという。
ユーグはそんな彼の側近候補として王城に出仕するよう命じられ、礼儀作法などを徹底的に学ばせられたのだそうだ。恐らくその頃からアルマンディン王家の家臣として指導を受けていたのだろう。
(しもべたちが目視できるということは、相当魔力が強かったんだわ)
魔導士というのは、四大神のしもべを目視できるかどうかで才能が決まる。
そして習得したい属性のしもべと契約し、魔術媒介――貴石を用いた装身具などだ――を通じて魔力を分け与えてもらう。
しもべを目視できるということは、魔導士としての天性の才能を持ち合わせているということだ。
アルマンディンはかつて「魔術大国」と称されていたこともあるそうだから、兄王子が即位していれば臣民に崇拝されるカリスマとなっていたかもしれない。
クララが私室に飾っている宝剣は、かつてユーグがアルマンディン王から下賜された品なのだそうだ。これまで王家に仕えてくれた礼としてユーグに託されたが、元はと言えばその兄王子が継承することになっていたものらしい。
「なんでも、お兄様が次期国王の証として持つことになっていたのだとか。もちろん、今も生きていればのお話ですが……」
「……お兄様は、どうなってしまったの?」
「……処刑されたのだと」
かたかたと震える手をもう片方の手でなだめ、クララは細い肩を落とした。
「ごめんなさい」
「いいえ……、バイオレッタ様は何も悪くありません。悪いのはわたくしです」
「そんな! どうしてそんなことを……!」
「いいえ!!」
クララは両手で顔を覆い、わっと声を上げて泣き始めた。
バイオレッタは眉を曇らせる。
普段滅多に感情的になることのないクララが、顔を覆って泣いている――。これはきっと、よほどのことがあったに違いない。
(貴女にも、弱い部分があるのね)
美しく完璧で、いつも冷静沈着なクララ。時には不敵な笑みを浮かべて周囲を牽制することもある、捕虜ながら気丈な姫。
そんなクララが嗚咽を漏らして泣きじゃくっているのはあまりにも痛々しかった。
……けれど同時に、バイオレッタは少しだけほっとした。彼女は自分と同じ「人間」なのだ。そして、ただの脆い一人の「少女」なのだ。
バイオレッタは彼女を抱き寄せると、励ますように背を撫でた。クララは一瞬ためらってから、バイオレッタにしがみついてきた。
バイオレッタはその華奢な背中が小刻みに震えているのを感じ取る。それだけで、クララが懸命に泣くまいとしているのがわかった。
「……今は泣いてもいいわ、クララ。あんまり感情を押し込めたって、いいことなんてないのだもの」
出会ったばかりの頃、ピヴォワンヌが自分にそう教え諭したように、バイオレッタはクララに涙を流すよう促す。
暗い気持ちや鬱屈した感情を胸に溜め込んだところで、何にもならない。そんなものを蓄積させていたって、日々の糧にさえならない。吐き出せるなら吐き出すべきなのだ。
「わたくし、何も見なかったことにする。だから、悲しいなら泣いて。無理をしていたって何もいいことなんかないから」
「バイオレッタ、さま……!」
「貴女は今、泣いている。……だけど、それはけして悪いことやいけないことじゃないはずよ。こうやって涙を流している自分を、認めてあげて」
自分の弱さを認めるのは辛いことだ。
だが、そうしなければいけない時というのは必ずやってくる。そして、認めた後はその分だけ強くなれる。
だから、自分自身の脆い部分を直視することから逃げてはいけない。己の脆さを知れば、この先どうすれば強くいられるかもわかってくるのだから。
バイオレッタはそんな思いを込めてクララをぎゅっと抱きしめた。
彼女はこらえきれないといった風にしゃくり上げた。
「わたくしは……、あまりにも無力です。お兄様を身代わりに、今ものうのうと生き延びている。愛しい方すら解き放って差し上げられない……!!」
愛しい方、という言葉に、バイオレッタはぱちぱちと瞬きをした。次いで、ぽんぽんとクララの背を叩く。
(……クララにも、好きな方がいるのね)
クララは十七歳。社交界で喩えれば、将来のことを考えて宮廷にお披露目され始める年恰好だ。
そんな花の盛りの乙女ともなれば、恋い慕う相手がいたって何ら不思議はない。
年頃の少女たちというのは恋物語に羨望を抱くものだし、一度は恋しい殿方の腕に抱かれてみたいと思うものだろう。
十七ともなれば、社交界でももう立派な淑女として扱われ始める年齢である。甘やかな恋情に身を焦がすことは罪でも何でもない。
「ねえ、クララ。貴女に想われる殿方は幸せね。こんなにも涙してもらえて、親身になってもらえて」
「いいえ! そのようなことは……!」
「そうかしら。そんな風に思い切り心を震わせて泣いてもらえるというのは、本当はすごく恵まれたことじゃないかしら。だって、クララは思わず泣いてしまうほどその方を愛しているということでしょう?」
クララはのろのろと顔を上げた。
……全身で恋の歓びを表現する彼女は、思わず鳥肌が立つほど美しかった。
サファイアの瞳は透き通った涙に濡れてきらきらときらめき、柳眉は切なげに――何かをこらえるように寄せられている。
バイオレッタはポシュの中からハンカチーフを取り出すと、彼女の涙をそっと吸わせた。この涙さえ、クララの想いのかけらなのだ。
「……こんな感情を与えてくださったのは、あの方だけなのです。最初はただの友人でしかなかった……。なのに、一体いつからこんなことになってしまったのか……!」
自問する様子はどこか苦しそうですらある。
バイオレッタはその重荷を少しでも下ろしてやりたくて、静かに訊ねた。
「クララの好きな方って、一体どんな方なの?」
「……!」
意を決したように、クララは顔を上げる。そしてきっぱりと答えた。
「アスター・ミハイル・フォン・スフェーン殿下。このスフェーンの第一王子であらせられる方です」